、「教育者としての内村鑑三」から、「ジャーナリストしての内村鑑三」へ

「教育者としての内村鑑三」から、「ジャーナリストしての内村鑑三」へ

 小さな器クリスチャントゥデイにも無教会から東方教会まで、それなりに幅広い対象の記事が掲載されています。その中でも、内村鑑三を中心とする無教会関係の記事が占める多様さ・多量さは、検索機能を用いれば、一目瞭然です。
 そこへ一種の存在感を示す記事http://www.christiantoday.co.jp/articles/17574/20151110/akaetatsuya-1.htm が加わりました。
 「紙上の教会」、つまり雑誌メディアを活用した内村の宣教活動は、実際的にも本質的にも組織や予算に裏付けられる、組織の教会の「無」い中での欠如の恵みです。
 これはまさに、同じくあれこれの欠如の中で、インターネットメディアを神の恵みの道具として受け止め活用しつつ福音宣教に従事しようとするクリスチャントゥデイにとって、深い親近感を覚えるものです。
 また、私個人とっても、十代の終わりに日本クリスチャンカレッジのクラスレポートのために、内村鑑三全集の書簡や日記を中心に読み進め、「教育者としての内村鑑三」を書いて以来、内村鑑三、また無教会は生涯の生きた課題でした。
 その上、75歳にしてクリスチャントゥデイの働きに参与する中で、「ジャーナリストとしての内村鑑三」との新しい視点から、今までの経験を振り返り、これからを展望し、鈴木範久、『内村鑑三日録』3冊目を読み進んでいるところです。ですから個人的にも、本記事は重い意味を持ちます。
 最後に、記事の一つの点だけ取り上げたいのです。
内村の「余の精神、主義および福音を了解し」、「余の志を継承しかつこれを発展」する者とは誰のことなのか? との問いに対して、「それは書物や雑誌を通して内村が語った福音を読む『私たち』のことに他ならない」と、著者の赤江氏は『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』を締めくくっている事実を記者は明記しています。この「私たち」の内実こそ、ヨハネ福音書1章14節に見るものです。
 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」
 ヨハネ1:14に見る「私たち」は、ヨハネ福音書を、いつでも、どこでも、読んでイエスをキリストと信じる、一切の人間的な差別の壁を越えた、人々の群れ・聖なる公同の教会を指し示します。この恵みの事実が書物や雑誌など紙のメディアを媒介として生じ、またインターネットメディアを通して現実となるかどうか。これこそ、赤江氏の著書がクリスチャントゥデイの読者にとって特別重要な意味を持つ理由と判断します。

★『「紙上の教会」と日本近代』(1)メディアとナショナリズムから捉え直した内村鑑三と無教会
内村鑑三というと、堅固な信仰者にして思想家というイメージが強いのではないだろうか。『「紙上の教会」と日本近代:無教会キリスト教の歴史社会学』は、歴史社会学の視点からメディアとナショナリズムという切り口で、内村と無教会の捉え直しを図っている。




















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