私への恵み、私の弱さークリスチャントゥデイの編集会議での学びー

私への恵み、私の弱さークリスチャントゥデイの編集会議での学びー

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さ のうちに完全に現われるからである」
          (Ⅱコリント⒓:9 新改訳)
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
          (Ⅱコリント⒓:9 新共同訳)
「お前はわたしの恵みで十分だ。弱さにおいてこそ、力は余すところなく発揮されるのだ」
          (Ⅱコリント⒓:9 フランシスコ会訳)

 毎日、Facebookに投稿している「聖書の切れ味」で、今朝取り上げたⅡコリント12:9の御言葉から、「私への恵みと私の弱さの両立」ということについて伝えたい。
 「弱さが克服されて、恵みが与えられる」、あるいは「恵みによって、弱さが克服される」というのではなく、「恵み」と「弱さ」は両立するものであるということを見たい。
 「聖書の切れ味」では、3つの異なる聖書の日本語訳を併記しているが、「、」(読点)を打つか打たないか、
「私」(人間の場合)と「わたし」(神、イエス・キリストの場合)の使い分けなど、それぞれの訳がそれぞれ様々な議論を経て現在の形になっている。
 翻訳過程で捨てられた訳も多くあるはず。今日の箇所の後半は、「というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(新改訳)、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(新共同訳)、「弱さにおいてこそ、力は余すところなく発揮されるのだ」(フランシスコ会訳)となっている。
 新改訳では、日本語訳ではくどくなるため消されがちな「というのは」という接続副詞を残しており、一方、新共同訳とフランシスコ会訳では、「力は弱さの中で【こそ】」「弱さにおいて【こそ】」と、「こそ」を用いて強調している。
 そしてそれぞれ、神の恵みは、われわれの弱さの中に【こそ】、「完全に」(新改訳)「十分に」(新共同訳)「余すところなく」(フランシスコ会訳)、「現れる」(新改訳)「発揮される」(新共同訳・フランシスコ会訳)と書かれている。
 私の場合、例えば文章を書くという点において「恵み」とは、寝た後に頭が冴え、書くべき文章がすらすらと出てくること。
 寝ている間に聖霊が記憶に働きかけてくださることを感じる。文章を自分で作った・書いたというよりは、文章が「生まれた」という感じ。
 しかし、そのように「恵み」によって生まれた文章だが、依然として「弱さ」がある。それは、文章を校正されるとき、ブログで文章のミスを指摘されるとき、はっきりと分かる。
 恵みはあるが、弱さが完全に克服されるわけではない。弱さは弱さとして残っていく。その弱さが、神様が働かれるときの接点になる。