2015年5月17日(日)③「浅沼ご家族とともに」―私たちとともなる被爆者キリスト―その3−

2015年5月17日(日)③「浅沼ご家族とともに」―私たちとともなる被爆者キリスト―その3−
2011年7月25日
宮村 武夫


〔3〕『私の精神史』への応答の二つの柱
 これからの話をしたいために、今まで寄り道してきました。
浅沼寛司さんの証・『私の精神史』を、正直に言うともっと読まないと充分な話が出来ない面があります。しかし共に歩む道は継続ですから、今後を期待し、今の時点で私なりのレスポンスをしたいのです。
 まず、柱を立てる必要があります。細かいところはいろいろあり、それはそれで大切です。しかし細かい点を細かく見ていくためには、家に例えれば柱に当たる骨組みの把握が欠かせません。私は、浅沼寛司さんの証・『私の精神史』を貫く二本の柱を見ます。
①現在と過去と②現在と将来の二本の柱です。

(1)現在と過去
 浅沼寛司さんの証・『私の精神史』の最初に、目次が登場します。
何を読むにしても、目次はとても大切です。
何が(主題)書かれているか、いかに(展開)語られているかが明らかにしています。
そうです。目次は、全体と細部の関係を示して、書き手・著者が、なぜこのこと(主題)を、このように(展開)書いたか、著者の言い分・意図を明らかにしていきます。
浅沼寛司さんの証の目次で際立つのは、過去、現在、将来と全体を三分している点です。この事実に基づき、私は証を貫く二本の柱を認めたのです。
しかもすでに申上げてきたように、過去は固定されたものではない。現在が過去を変え続ける、少なくとも過去の意味を変え続けていく、現在と過去の関係はいかにも豊かなものなのです。
 浅沼さんの文章も、単なる時の流れに従い書かれているものではありません。何月何日に、このことがこのように起きた、次に何月何日に・・・とは必ずしも書いてはいないのです。
ではどう書いているのか。
過去の一つの出来事を書くと、その事実を現に今どのように理解しているか、もう一つの事実と練り合わせ織り合わせて書いています。
このように現在と過去の関係を考える時、私たちの理解を深める大切な鍵を、ヨハネ福音書9章の初め、主イエスと弟子たちの対話を伝える記事に見出します。
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』
エスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです』」(ヨハネ9章1−3節)。


あの生まれつき目が不自由な状態で生まれた人の現在(障害を持つ事実)について、弟子たちの言葉、「本人か親か(だれが罪を犯したからか)」が明示している要点は、因果応報−原因があって結果−の断定です。過去が現在と直接的に結びつき決定的に左右するのです。
主イエスは、まさにこの結び目を断ち切るのです。

皆さんの中で、精神科の診察や治療を受けた方がおられるかどうか知りません。
もし行った経験があるとすれば、過去のことを根掘り葉掘り聞かれる場合が少なくなかったと推察します。
 ところが、沖縄での私の主治医・中嶋医師は東大医学部の上田敏先生のリハビリの考え方を精神科に適用されるのです。どういうことかと言うと、ある特定の過去と現在の状態を、原因結果の関係で断定的に結び付けないのです。あのことが原因でこの結果になったのであるか、ないかは確定できないとし、断定しないのです。 

この事態をめぐり、もみの木幼児園時代忘れることが出来ない経験をしました。
あるお母さんが二人のお子さんを連れて園に来られたのです。上のお姉ちゃんに障害があるから、もみの木に入園させたいとのお考えでした。
話を聞いて、私の受けた印象はこうです。二番目の赤ちゃんが生まれて、お母さんが二番目の赤ちゃんの世話で、上のお姉ちゃんの要求を全部応えられない状態にあった。あの時、お姉ちゃんがお母さんに呼び掛け要求したのに、「自分が無視したから、この子は障害になった」とまじめに考えている様子なのです。「どうしてそんなことを言うの」、「お医者さんに言われた」と。「母原病」と言う嫌な言葉が流行っていた時代背景でしたが。
 
一つのドグマ、一つのイズムが生きた人間を縛る。それは最もすばらしいはずの医学の関わりでも起こり得る。
宗教の関わりでの実例を、私は嫌というほど見てきました。それだけではなく、医学の関わりでも、その可能性があると認めざるを得ないわけです。

そうした中で、中嶋医師は勇気を持って、因果応報的な観点から、根掘り葉掘り生育について問いを重ねたり、断定したりしないのです。中嶋先生が言われるのは、「火事がバァーと燃えていれば火を消す、そのために薬物を使う」。課題は、その後にバッラクであっても建物を建てること・生きることにあると。薬を使うにしてもいろいろな考え方があるわけです。
中嶋医師は私に、最初の段階で、「宮村先生、よく認めましたね。自分が病気だと認め、病院に来られましたね」と話されたことがありました。
また中嶋先生は一切の例外を作らないのです。私が牧師であるとかなんとか、病院に行ったら、特にその治療室に入ったら問題ではない。
 そこでは私は一個の人間として、医師も一個の人間として、ものを考える。生きた人間と人間の出会い。
そこでは火は燃えている―躁の状態、鬱の状態まさに火事の状態―だから薬を使う。で私はそれを認める。認めることは出来たのですけれど、初めの頃はなかなか定期的に飲み続けることが出来なかったのです。もう自分で良くなったとか。悪い状態であれば、飲む気力もない。
そういった状態の中で、中嶋先生は、とにかく火を消す。掘っ立て小屋でもいいから建てていく、リハビリの考え方を実践なさる。
私が状態が良くなった、治ったみたいと申し出ても、「宮村先生、生涯直りませんよ」とはっきり釘をさす。だから生涯直らないけれども、生きて行くのだ、生きている事実、生かされている事実が肝要。直ることが目的じゃなくて、生きている意実が中心で、その中でどういう風に生きていくかが問われている。
 中嶋聡医師は、説教牧会者としての私の説教を、忠実に深く心と思想と生活で受け止めて下さっていました。先生の著作に私の説教の共鳴を聞くのは、励ましであり慰めでした。

(2)現在と将来
 ヨハネ福音書9章の初めで言えば、「神のわざが現れる」や「神の栄光が現れる」、つまり将来・未来との関係です。
過去との因果関係を切り、過去に決定的に支配される束縛から解き放たれるだけではないのです。もっと積極的に、過去が変っていくだけではなく、将来・未来の展望。その意味で、現在と将来の関係なのです。
現在と将来であれば、「ボタンは下から」です。将来・未来から現在を見るのです。さらに「終極的な将来は何か」と言えば、「聖書以外にない」と考えています。
 
今後、浅沼さんが書いたものと対話して行きたい課題の一つは、将来についてです。浅沼さんの証では、84ページ以降が直接将来に関わります。
将来に関係する部分が少ないように見えます。けれども浅沼さんご自身は、「『私の精神史』は思い切って詳しく、余計と思われることまで書いてみました」と意識し実行しています。
どうしてそんなことをするのか。私に言わせれば、そこには、ちゃんとした意図があります。
ものを書くのは、大変な営みです。ものを書くのは自分の中のものが溢れ出てくるから。確かにそういう面もあるけれども、私に言わせれば、ほとんど自己否定です。「このこと書いていいかな」、「こんなふうに書いていいのだろうか」。その自問の度ごとにいちいち、いちいち己を捨てて行くのです。自己否定し消して、消して。
それは私が言うだけでなく、大江健三郎も、「消して書く」と同じことを語っています。
ですから、浅沼さんの証86ページ。多いなあと受け止めますけれど、おっとどっこいです。これだけを書くために消した量はどれだけのものであったか。どれだけ消したか、どれだけ捨てたか。消しに消し、捨てに捨てた結果が、私たちの前にあるのです。
 このような意味での「将来」についての箇所です。

 浅沼さんから聞きながら、以下応答したいのです。
イエス・キリストの復活の事実と、復活の恵みの波及である、ががからだの贖(あがな)い、それこそ、私たちの揺るがしがたい確定的な将来です。使徒信条の最後・頂点で信仰告白するように、罪の赦しが確かなことであり、永遠のいのちが確かであると全く同じように、この二つの恵みと全く同じく私たちが身をもって経験するのは、からだのよみがえりです。
 浅沼さん、また浅沼さんの家族に対して、「私がともに生きる」と言う場合、何をもってともに生きるのか、私はこのローマ人への手紙8章23節に心を注ぎます。
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」。
 私たちにはすでに初穂−全宇宙の完成・私のからだの完成の最初の保証−が確かに与えられています。そうです。聖霊ご自身が与えられています。
聖霊ご自身が浅沼家族の一人一人に与えられています。その恵みの事実は、全被造物の完成、私たちのからだの完成(キリストのからだに似るものとなること)の確かさを示すための手付金であり、保証です。
 
聖霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら」、そうです、うめくのは正常なのです。
しかし何のためにうめくのかが問題です。「うめくのが悪い」「うめかなければ善い」、そういう話ではない、何のためにうめくのか。確かにうめいちゃいけないことのため、うめく必要のないことにうめいてはいけない。
しかし、うめかなきゃならないのに、うめかないのは異常なのです。
ですから、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいるのです。このためにうめくのは正常であり、このためにうめかないことは異常なのです。
 鼻が高いの低いの、顔がどうのこうのなどと言っておられない、そんな暇はないのです。もっと私たちはうめかなきゃいけない、もっと私たちはすばらしいものが約束されているんだから、その到達のためにその完成のために。そしてその望みが確かであればあるほど、私たちはどんなことでも言い訳しない。どんなことでも言い訳しないで、主からのくびきとして負っていく。そうした清々しさ、それが心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望み(希望)。将来は希望です。与えられた持ち場・立場に留まり、現在は忍耐するのです。
 同じことをピリピ人への手紙3章21節で、もっと直接的に提示しています。
   「キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、
   私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光のからだと同じ姿に変えて
   くださるのです。」
 そうです。キリストは創始者、キリストは宇宙万物の保持者です、今も。そして宇宙全体を完成に導く方なのですが、そのお方が集中的に私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
 被爆者キリストはそれが自己目的ではない。被爆者キリストは、私たちの一番どん底に来たお方です。どん底にある私たちとともにおられて、ご自身の栄光のからだと同じからだに変えてくださる。そのプロセスとして、今の歴史が進展している。ですから、一番下も下であれば、一番上も上なのです。