2015年5月15日(金)③「浅沼ご家族とともに」―私たちとともなる被爆者キリスト―その2−

2015年5月15日(金)③「浅沼ご家族とともに」―私たちとともなる被爆者キリスト―その2−
2011年7月25日
宮村 武夫

[2]被爆者キリストへのささやかな応答
 2010年3月11日の出来事は、誤解を恐れずに言えば、日本全体の脳梗塞的事柄、いやはるかにそれ以上の無比の出来事でした。
 今、私が言えることは、福島県いわき市在住の住吉夫妻との具体的なメールのやり取りについてです。住吉ご夫妻から受け取ったメールに書いてありました。そのまま読ませてもらいます。

「もっか原発被爆恐怖です。いわき市の多くの人たちは東京等に向けて脱出しました。牧師たちもある人たちは脱出しています。私は悩んでいます」と率直に伝えつつ、遣わされた地に留まり続けています。お二人とも30年以上前、神学校で授業を担当した教え子である牧師ご夫妻。
私はそのメールを受け取ったときに「クウォ・ヴァディス・ドミネ」と一言書いて返事しました。後で、ずいぶん冷たいなと思ったんですけど。
「クウォ・ヴァディス・ドミネ」と言えば、私の世代だとすぐぱっと思い出す、19551年のアメリカ映画、「クウォ・ヴァディス」(ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチによる同名の小説の映画化)。
それはローマで大変厳しい迫害下のこと。指導者であるペテロだけは逃れて次の世代のため道を備えるようにと人々は懇願、ペテロもそれを承知してローマを後に街道を進む。と光のような復活の主イエスの姿に出会い、ペテロが「「クウォ・ヴァディス・ドミネ」(主よ、何処へ」と問うと、「ローマへ」と一言。
迫害の地・殉教の地、「ローマへ」との復活の主イエスの声を聞き、ペテロ自身もその顔をロ−マ、今、去ってきた迫害の地・殉教の地ローマ戻り行く。
その「クウォ・ヴァディス・ドミネ」の一言を住吉ご夫妻にメールしたのです。それがどういう意味で、どういう風に受け取られたかは皆さんのご想像にお任せします。
 住吉ご夫妻とメールのやり取りを続けているうちに、イザヤ書の二つの箇所を思い起こしました。これも、「犬が歩けば棒に当たる」でしょうか。様々なことを考え思い巡らしている時にているときに、ふっと聖書の言葉が思い起こされる。て。一番良いときに最適の聖書箇所を主が思い起こしてくださると思い知るのです。
「イザヤ63章9節」
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼ら
を救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からず
っと、彼らを背負い、抱いて来られた。
「イザヤ63章9節」
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っ
ていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばな
かった。「イザヤ53章3節」
 住吉夫妻とメールのやり取りをしている中で、ながら、私の心の中にこのイザヤ書の言葉が先に来たのか、『被爆者キリスト』とのイメージが先に与えられたのかちょっと判断しかねます。しかし、その二つは確かに切り離せないものなのです。
 
 「なぜ、こんなことが起こるのか」と、答えの与えられない質問が出ます。「これはなぜか、どういう意味か」と問いが湧き出ます。こうした現実の中で、私の内面では疑問の余地がない。
キリストご自身が東北の方々とともにいてくださる」、「ともなるキリスト」、インマヌエル(神われらとともに)なるお方。
 
けれどもインマヌエルの方が、どのようにともにおられるのか。『被爆者としてともにおられる』、この思いが理屈を越えて、一つのイメージとして私の内面に先に来たのです。そしてこのイメージを支えるのが、上記イザヤ書の聖句なのです。
逆に言えばイザヤ書の聖句は、私たちを担ってくださるお方、また人が顔をそむけるほどの病を知って、特にメシヤ思想の一つの流れとして、メシヤはハンセン氏病を患うお方として来たりたもうとの考えが、中心的な思想ではなかったにしても、一つの思想の流れとしてズーッとあった。今では、私はどの本で読んだのか思い出すことが出来ないのですけれども、それを聞いた時受けた強い印象が私の心の中にいつも残っており、その印象とも結びついてイエス・キリストはインマヌエルのお方なのです。

 さらにイザヤ書の聖句に重ねて、Ⅰペテロ2章18節以下が、『被爆者としてともにおられるキリスト』理解の道を開いてくれます。
 牧会書簡など聖書の他の箇所では、キリスト者の奴隷に向かって勧めをするとき、「キリストに仕えるように主人に仕える」と奴隷に向かい語り、「あなたのご主人様に伝えるのは、あたかもキリストご自身に仕えるように、この欠点だらけの主人にも仕えていくように」勧めるのです。奴隷に対して、自分をある意味で動物のように売り買いさえする主人にさえ、「キリストとして仕えていくように」と勧めるのです。
 ところがⅠペテロの手紙は違います。キリストご自身も奴隷として、奴隷の立場でそのむちゃくちゃな状態の中でキリストご自身も生きた事実に立つのです。主人の側にキリストはいないのです。まさに奴隷の側にキリストがおり、キリストも、あなたがたがそうであるように、矛盾だらけの、本当にどうにも説明のつかないような状況の中でも、父なる神に従い生きてきた。あのキリストの模範のようにとは、キリストご自身が奴隷の立場に立つのです。
Ⅰペテロ2章21−23節をお読みします。
「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」。
Ⅰペテロ2章18節以下は、本当に大切な、意味深い箇所です。
 キリストご自身は、この現実世界のいろいろな苦しみのはるか上におられ、すべてを司るお方、それはもちろんそうです。
しかしキリストは真の神であるばかりではなく、真の人として人間の側、人間の悲惨のただ中に、「被爆者としてキリスト」として存在しておられる事実の意味を私なりによく考えなければいけないのです。

 2011年5月14日、25年振りで沖縄から関東に戻り、1986年4月以来25年の沖縄で出会った方々に祈り支えられてです。
また1945年3月10日東京大空襲、1923年9月1日関東大震災を経験した深川に生まれた者として、故郷東京下町を視野に入れながら千葉県市川市に移住しまあした。
1923年9月1日大正の大震災について、私は改めて驚いています。大正大震災なんかズーッと前の話だと思っていた、小さいときから。ところが1945年の東京大空襲とその前の1923年関東大震災の期間、何と22年間。つまり大正の大震災からわすか22年に東京の大空襲・・・。
私の祖母がよく話していました、大正の大震災の時にどうであったとか、それから3月10日東京大空襲でどうであったとか。
大正の大震災後、私たちの家族は栃木県の佐野(祖母の出身地)に疎開したのです。私の父親は小学生、大正2年生まれですから。その佐野で聖公会教会学校に通ったのです、その事実を父親は一言も私たちに話さなかった。しかしズーッと経ってから、父親の従妹が「たいちゃん(父親の愛称)はね、教会学校でとても人気者だった」と話してくれたのです。
私が高校を卒業するかしないかで、牧師の道に進もうとした時、父は一言も反対しなかったのです。親戚の方々が「たいちゃん何やっているの。跡取りがとんでもない方に行っているのに一言も言わない。なんで黙っているの」と忠告しても、父は全然それに耳を貸さないばかりか、後の留学費用を含め学費など全面的に援助してくれました。その当時、私は当たり前だと思っていました。
しかし今は違います。大正大震災被災して佐野へ疎開、そこで「犬も歩けば棒に当たる」恵みの経験をしたのです。佐野の地で教会学校に行き、父の心に福音の種が蒔かれ、後には家族にまで見えざる影響を及ぼしたのです。
1923年の大震災で、加賀藩を後に新しい地で明治維新後築いてきたもの全部焼き払われてしまう。それで震災後、コンクリート中心の建物を建てたわけです。しかしそれもまた1945年に全部焼き払われて、私の従兄弟、叔母の半分は一晩で亡くなりました。

 ですから今回の3月11日の出来事―今のことから―を通して、過去−1923年の大正大震災とか1945年の東京大空襲−の意味を改めて考え始めています。
ですから皆さん過去は変わらないとよく言いますけれども、そんなことはない。過去は確かに大正12年の大震災があった事実は変わらない。けれども、それがどういう意味があるか出来事の意味は変わるんです。現在いろいろな経験により過去の意味理解は変わってくる。生の出来事などはありえない。過去の出来事は変わらない動かないと私たちは思ってはいけない。過去が変わってくる。どんどん変わってくると大げさに言ってもいいくらい、過去の意味が深まり広まってくる。ですから1923年9月1日と1945年3月10日の経験をした深川に生まれた者として、故郷東京下町を視野に入れながら関東へ戻る意識が非常にはっきりしています。ですから私たちとり一つ一つの出来事を固定したものとしてではなく、その意味が深まり行くのです。

 ですから最初に浅沼さんの証を読んだとき、「ワーッ」と思いました。しかし思いが深まってくるとワーッではなく「ワーッ」となったり」、静かに「ヮ‐」となったり、感動一つもいろいろ変化します。

 2010年1月18日に最初に計画された集会。それは固定した一つの出来事です。でもそれがどういう意味であるか、それに対して私はどういう風に備えていくべきか。「あー深川のこと」も考え、深川でのあの大正大震災から空襲までのわずか23年間にあれだけの復興、そして復興したものがもう一度すっかり焼かれてしまう。またそこからまた出直す。
「何たる人たちだ、私の父母や祖父母は」、このような思いは、私の子どもの頃にも、青年時代にも、感じたことがない。それを今は教えられてきています。

 「ともに」は、単に今生きている人との間だけではなく、過去のいろんな人とも「ともに」なのです。その事実を聖書にハッキリ書いています。「雲のような証人に」(へブル12:1)と。そして私たちもまた、雲のような証人に囲まれているわけです。
さらに「ともに」にとり、地域がとても大切です。人間は身体を持つ存在ですから、地域と関係しないで存在することが出来ません。
 しかもいっぺんに二つ、三つの土地に同時に存在することは出来られないと普通の考え、私も長い間そう理解していました。青梅にいたら寄居にはいられない。沖縄に行ったら青梅にいられないとズーッと考えていました。
ところが今そう思わないのです。新約聖書において、パウロはどこの教会の牧師ですか」と問われたら、何と答えますか。答えは、案外難しい。「ヨハネはどこの教会の牧師ですか」の問いの答えも、難しいんです。

 三つの地域と立場を拠点に、喜びのカタツムリの地域を越えた歩みが、被爆者キリストへのささやかな応答となればと願うのです。
①栃木県宇都宮キリスト集会牧師
 私は宇都宮キリスト集会の牧師です、就任式もしました。そして今回の震災を通して、改めて宇都宮の歴史を見直したのです。それは東北の玄関としての宇都宮、この宇都宮に誕生した小さな宇都宮キリスト集会内村鑑三の生涯は私にとっていろんな意味があるのですが、内村鑑三が東北・北海道に旅する度に、宇都宮に必ず降りているのです。そこで集会をしています。これから東北に行くという時に、宇都宮が、」当時、大切だった。今でも私は小さな集会で、「東北全体を考えて」と願う。ただ歴史的、地理的に東北の玄関であるばかりではなくて、祈りが東北全体に対する祈りとなるように。
 その小さな宇都宮集会が、「キリスト教一致祈りの集会」と深い関係を持ちます。
主にあって公同の教会の一致の願いをもって毎年に1月に、特別な祈祷会・宇都宮キリスト教一致共同祈り会)持っているのです。最初の集まりの時に、美しく大きな松ヶ峰カトリック教会で沖縄から送ったテープをかけて、皆でメッセージを聞いた。が第一回目の祈りの集会でした。

②千葉県市川市聖望キリスト教会宣教牧師
 東京下町をはじめ東京と隣、市川うちなんちゅうの部屋の営みの小さな一歩と大きな計画。東京キリスト教学園と同じ千葉県で近隣。

沖縄県名護市名護チャペル協力宣教師
 名護・山原から沖縄を見る。毎年2月、名護を中心に沖縄での宣教活動。
 徹底的な聖霊信仰、徹底的な聖書信仰に基づくささやかなカタツムリの歩みを。
遣わされた地・福島県いわき市に留まり続けている、住吉ご夫妻に共鳴しつつ、喜びに満たされて継続したいのです。