クリスチャントゥデイの働きの源泉 青梅線沿線の諸教会の交わり ①

クリスチャントゥデイの働きの源泉 青梅線沿線の諸教会の交わり①

 クリスチャントゥデイの働きをなしつつ、沖縄での25年の日々が大切な土台となっている事実を、沖縄での日々実感しています。
 しかしさらに沖縄に移住する以前の青梅沿線の諸教会の交わりが、クリスチャントゥデイの働きの源泉となっている側面を認め感謝しています。
以下の文章は、その一つの記念です。

1985年6月30日発行
連合イースターの集い 感謝ニュース 第3号

○「見ずに信じる者は幸いです」ヨハネ20章19〜29節
メッセージ 日本新約教団青梅キリスト教会牧師 宮村武夫


(一)序

一九八五年、イースター青梅線沿線の諸教会のキリスト者が一つ場所に集まり、イースターのお恵みを感謝し祝う。また、その恵みを多くの方々にお伝えする、連合イースターの集り。一九八三年、一九八四年と二年間の積み重ねの後に、今年は第三回になります。

イースター。それは、クリスマス、イースターと並び称せられるものです。クリスマスは、イエス・キリストの誕生、降誕を特別に記念する日として、日本の社会全体に広く知られるようになりました。
しかし、イースターについては、どうでしょうか。イースター。それは一言で言えば、イエス・キリストが十字架で私たちの罪のために死なれたばかりでなく、罪と死に勝利し復活なさった事実、その恵みを特別に祝う日です。そして、主イエスの十字架の死と復活こそ降誕、クリスマスの目差すもの。イースター抜きに、クリスマスの本当の意味は理解出来ない、そう断言しても過言ではないでしょう。ですから、イースターもクリスマス同様、キリスト者・教会という一部の人々ばかりでなく、全世界の凡ての人々にとって、喜びの日なのです。この午後、忠実屋の屋上、誰れにでも開かれている場で連合イースターの集りを持つのは、イースターに相応しいと考えます。

一九八五年、雨のイースター。雨の可成り激しく振り続ける中で集いを持ったこと、私たちは長く忘れないでしょう。来年も、再来年も、十年後も、一九八五年、雨のイースターを思い出し、語り合うに違いありません。

さて一九八五年、このイースターの午後そもそも最初のイースターの出来事を、先程司会者に読んで頂いた、ヨハネ福音書20章19節から29節の箇所を通し直接見て行きたいのです。この箇所――正確には、19節から25節までの最初のイースターの出来事と26節から29節に見る。それから一週間後の記事――そこに登場するのは、特に、疑い、懐疑の中にある。弟子の一人トマスです。彼らが経験した、最初のイースターの出来事に私たちの思いを集中したいのです。

(二)恐れ、身を隠す弟子たちの間に(ヨハネ20章19〜25節)

最初のイースター、その時のイエスの弟子たち。彼らは、今日の私たちのようではなかったのです。忠実屋の屋上で誰れにも遠慮せず、まして誰の目をも恐れることなくイースターを祝っていたのではない。「ユダヤ人を恐れて戸がしめてあった」とあります。恐れていたのです。十字架で殺された、イエスと係わりを持つ者として、とんでもない目に会いたくない。そうです。身の安全を考え、身を隠していたのです。

では、何故身の安全を考えたのでしょうか。結論から言えば、死を恐れたからです。自分の生き方が総決算される時として、死を恐れたのです。そうです。死そのものと言うより、自分が生涯において語って来たこと、為して来たこと凡てが明らかにされ責任を問われるそのことを恐れたのです。自分で自分の口から出して来たことばや行動を判断し、それがいかに他人を傷つけて来たか、心の奥深く感じ取っていたのです。このままでは、死ぬに死に切れない。

恐れと不安の中にあり、戸を閉じ身を隠し、身を潜めていた弟子たち、この弟子たちの所に、復活なさったイエスが来られ、彼らの中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。

「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。

「平安があなたがたにあるように」。そうです。「ホッとしなさい」と、主イエスは語り掛けています。確かに、私たちの身近でも、心配したり、不安な状態にある人々に、「そんなに心配しないで」、「きっと大丈夫よ」と、励ましや慰めのことばが語り掛けられています。私たち自身も、そのようなことばを口にします。そして、多くの場合、それは気休めに過ぎず、ことばの裏付けがない。
しかし、「平安があなたがたにあるように」と語り掛ける。主イエスの場合は全く違うのです。「こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された」とあります。何故、弟子たちがホッとして良いか、その根拠がはっきりしているのです。語ってはならぬことを語り、語らねばならぬことを語らず過してしまった。一つ一つのこと。あの一つ一つのため、主イエスは責任を取り、身代りとして十字架の上で死なれたのです。「これこの通り。この手に釘の跡が、わき腹に槍を突き刺された跡が」と、十字架の事実に基づく「ホッとしなさい」なのです。

弟子たちは、このように全身をもって語り掛けて下さる、主イエスを見て喜んだのです。その弟子たちに、「平安があなたがたにあるように」と、もう一度言われ、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」と、生きていてよい、なすべき仕事、役割があるのだと主イエスは励ましているのです。この場合も、単にことばだけではないのです。「聖霊を受けなさい」と、なすべき役割を果す力を神ご自身が与えて下さると主イエスは保証を与えておられます。

なすべき役割、それを果す力。恐れに支配されていた弟子たちにとって、驚くべき励まし、約束です。しかもそれだけではない。更に、「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」と、主イエスは弟子たちに迫っておられます。私のあのことば、あの行為。取り消すことの出来ない、他人を傷つけてしまう言動。それは、心の奥深く私たちを苦しめます。死の床にあっても死ぬに死に切れない。
しかし、私たちの心を苦しめるのは、私たちの罪ばかりではありません。あの人のあのことば、あの行為、あれだけは絶対許せない。決して忘れることは出来ない。私が赦せない。他の人の罪も私たちを雁字搦めに縛ってしまう。他の人を赦せない私たちに、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます」(マタイ11:28)と、主イエスは勧め、約束下さっているのです。赦されねばならない私。その私が赦される。そればかりではない。他の人を赦せない私。その私が今、他の人を赦し、「ホッとする」ことが可能なのです。

最初のイースター。恐れる弟子たちの姿を見ます。その弟子たちが、今や、喜びに満たされています。その喜びは、罪を赦された喜びであり、罪を赦す喜びです。罪赦され、赦し、ホッとする弟子たち。

ところがです。弟子たちの一人、トマスは違います。「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった」とあります。決定的な瞬間、現場に居合わせなかったのです。そこで、弟子たちは、「私たちは主を見た」と、口々に喜びを伝えたのです。

人々が喜べば喜ぶ程。人々が熱心であればある程。トマスは冷静になるのです。弟子たちが一つになって、喜びを伝えれば伝える程、仲間と一緒になれない孤独感。人々のことばや感情に軽々しく左右されない、自立心を持つトマス。目で見、手でさわらねば認めようとしない、現代人トマス。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と、明言するのです。




(三)トマスに、復活のイエス現われる

そして、一週間後。私たちで言えば、来週の日曜日にあたります。「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた」のです。最初のイースターの時と違い、今度はトマスも他の弟子たちと一緒にいたのです。この時も、弟子たちは室内におり、戸を閉じ、かぎをかけていたのです。戸を閉じ、かぎをかける。この様は、トマスの心の中を実によく示していないでしょうか。目に見える戸を閉じているだけではない。心の戸を閉じている。それも二重、三重に。確かに、一週間前と違い、トマスも他の弟子たちと同じ部屋にいます。しかしです。一緒にいればいる程、復活の主イエスに会い喜んでいる他の弟子たちとトマスの間には深い隔たりが生じ、トマスは仲間に対し心を固く閉じていたと言えないでしょうか。

このようなトマスを含む弟子たち、主イエスは彼らのところに来て、「平安があなたがたにあるように」と再び語られたのです。しかもそればかりではありません。トマスに個人的に語りかけ、「あなたの指をここにつけて」と、釘で打たれた手を示され、「手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」と、槍で突き刺された、わきばらに手を押し入れよと、文字通り、全身をもって、トマスに呼びかけておられるのです。何よりも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。他の弟子たちの中にあって、心を閉ざすトマス。トマスの心の中に来り給うて、主イエスは呼び掛けて下さっているのです。トマスは、真実な呼びかけに対し、「私の主。私の神」と答えます。

ユダヤ人トマス。唯一の、生ける、真の神を礼拝しているユダヤ人。偶像に頭を下げるぐらいなら、生命を捨てる。そのユダヤ人トマスが、「私の主。私の神」と告白しているのです。ただごとではありません。罪と死に打ち勝ちなさった御方に対し、「私の主。私の神」と個人的に信仰の告白をなしているトマス。


(四)結び

以上、一九八五年、冷たい雨の降るイースター、最初のイースターの出来事、様子を私たちは垣間見てきました。

そうです。最初の弟子たち、特に、トマスの状態に注目しました。彼らは、何か見所があったり、他の人々より優れていた人物とは思えません。恐れて戸を閉じていた人々です。疑いに満たされ、心を閉じている孤独なトマス。確かに、自分自身で物事を判断しようとする自立的な人物ですが、このような弟子たちに近づかれ、特に、トマスには個人的に「平安あれ」と、主イエスは招いておられるのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)

あのトマスは、主イエスの招きのことば、文字通り全身を持っての招きのことばに答えています。このトマスの姿を見て、トマスが他の弟子たちに対し感じた思いを、私たちは持たないでしょうか。「結局のところ、トマスは復活のイエスに直接お目にかかれた。それなのに私は」と。トマスと同様、一九八五年雨のイースター、「他の人々は、しかし私は」と、二重、三重に心を閉じている私。主イエスは、この私に、「信じない者にならないで信じる者になりなさい」と語り掛けて下さっているのではないでしょうか。

「信じる者になりなさい」誰も信じられない。何も信じられない。特に、ことばに対する不信。これこそ現代人である私たちの実体です。あの人、この人のことばに対し不信を持つ。何よりも自分の口から出ることばに絶望している私たち。この私たち一人一人に、主イエスは「見ずに信じる者は幸いです」と呼び掛けていて下さるのです。

「見ずに信じる者」。そうです。聖書のことばを通して信じる者となるのです。この聖書のことば、この復活のイエスのことばは真実です。「平安」、「ホッとする」。それは、全く信頼出来る御方のことばを信じることです。「そのとき、神が『光よ。あれ、』と仰せられた。すると光ができた」(創世記1:3)と、聖書の第一ページには明記されています。光を、水を、植物を、そして動物をことばをもって創造なさった御方。ことばが事実そのものである御方。神のことばにより凡て整えられた環境の中で、神のことば、呼び掛けに応答して生きる者と創造された、人間私。主イエスが「見ずに信じる者は幸いです」とトマスに語り、私たちに呼び掛けておられるのは、まさに、神のことば、聖書の真実についてなのです。

群集の中で孤独を痛感する現代人、その一人である私。今、このように数百人の人々と一緒にいながら、まさに、野外の開かれた場所にいながら、自らの心の戸を固く閉ざし深い孤独の中にいる。それは、十分あり得るわけです。主イエスは、心の戸を二重、三重に閉ざしている私に、今、ここで個人的に語り掛けて下さっているのです。

恐れを持つ私は恐れを持つままで。疑いを持つ私は疑いを持つままで。心の戸を閉じ孤独の部屋にいる私。この私のところまで来て、「平安があなたがたにあるように」、また、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と呼び掛けて下さる、主イエス。最初のイースターの弟子たちのように、トマスのように、「私の主。私の神」と、ありのままで答えて行こうではありませんか。罪を赦す喜びに生きる者となるために。真実な御方の真実なことばを信じる。真実なことば・聖書のことばを通し、真実な御方に出会うのです。今、ここで、一九八五年、雨のイースターに。主イエスは、トマスである私に呼び掛けて下さっています。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ20:29)