「今日も生きる、万代恒雄先生の言葉」  その2

「今日も生きる、万代恒雄先生の言葉」  その2

[3]このことば
「止めを刺す」
今、日々私の意識している、万代恒雄語録の一つ、それは、「止めを刺す」なのです。
 「宮村君、君は人がよくて甘いから止めを刺すときに、手が緩むんだ」と個人伝道の際、
信仰の決断への導きの時、一歩引きがちの私の実情を万代先生は見逃さないのです。

 「戦国時代の武将が戦場に立てば、何が大切と言って、『止めを刺す』ことこそ、肝心要。
『止めを刺す』ことを、一瞬躊躇(ちゅうちょ)すれば、反対にと止めを刺されるんだからな、宮村君」。万代先生の指摘は的確でした。
1957年1月から8月まで、3月末の卒業式に東京へ戻った以外、万代先生宅で寝食を共にしながら、松山開拓伝道のお手伝いをさせて頂いている日々の中での導きでした。

 その後の歩みの節々で、明確な信仰の決断が第一。そこからその実現のための献身的実践。これによりもっともらしい一切の言い訳からの解き放ちを経験して来ました。
しかし「止めを刺す」万代先生の迫力には遠く及びません。
「宮村君、まだまだ甘いな。そんなことじゃ、止めをさされるぞ。止めを刺せ!止めを刺せ!」、万代先生の声が聞こえて来そうです。


[4]集中と展開
「あの方の生き方、死に方」
 1957年1月から8月まで、万代恒雄先生の松山開拓伝道のお手伝いをしていた最初期のことです。瀬戸内海の島々に伝道するため、万代先生をはじめ数名で古い漁船を高知県須崎から松山へ曳航することになりました。
 その途中小さな港に寄港した際、銭湯に行ったところ、お風呂が終る遅い時間から聖書集会があると伝える、一枚のポスターが張り出されていました。
 
 集会に出席して、驚きました。
集会で聖書のお話をして下さったのは、東京下町では三助と呼ばれていた、お風呂を沸かしを中心に様々仕事をする方でした。以前は由緒のある神社の神主さんで、聖書を自分で読み天地の創造者を信ずる信仰に導かれ、神社を離れて銭湯の仕事をしながら集会を続けているとのこと。
 そして主日には、小舟に乗って、八幡浜のアライアンスの教会に出席するとのお話しでした。その後の連絡などする配慮のなかった10代の私でしたが、ただ一度の出会い、あの晩のことを鮮明に記憶しています。
 聖書の人を変える力、キリストに従い名誉ある神主の地位を離れ、人々の垢を落とす仕事に従事なさる方の生き方を思い起こし、またあの方の私が知ることの出来なった死に方を想像するのです。
 そうです。万代恒雄先生の献身の聖書箇所は、言わずと知れた、黙示録2章10節、
「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」。
キリストへの忠実の一点に集中。そこから全生活と全生涯に波紋のように広がる、万代先生の言葉の基盤である生き方、死に方。名前も知らない、小さな港で一度だけお会いした、あの方の生き方、死に方。