主イエスの自己意識

主イエスの自己意識

私の素朴な、しかし基本的な見通しは、以下のものです。

旧約聖書ユダヤ教新約聖書との流れ理解に疑問を覚えます。

私の基本理解は、
旧約聖書ユダヤ教
旧約聖書新約聖書、この二つの流れが並存する。
ユダヤ教新約聖書は、旧約聖書に基づく(具体的には、旧約聖書の 引用と解釈)故に、当然多くの類似性。

しかしユダヤ教新約聖書には、同時に決定的な区別性も。
決定的な区別性は、勿論、真の神が人間・からだとなった事実をめぐるキリスト論です。

真の神が人間・からだとなった事実を現に私たちが手にしている新約聖書テキストそのものが明確に証言している点は否定しがたいと私は確信します。
だからこそ、この一点で、ユダヤ教新約聖書を否定するわけです。
私の知る限り、この、真の神が人間・からだとなった事実の新約聖書の明言の起源についての説明は、二つしかないと判断します。
(1)1960年代前半、ゴードンで学んだ、当時の現代ユダヤ教新約学者の論証、旧約聖書ギリシャ語訳に伴い混入したギリシャ思想がパウロ神学の基盤との説。
 後に、上智で、ユスティノスの「ユダヤ人トリュフォンとの対話』を、自分なりに学び、まさに上記の点が対話の中核であったと受け止めました。

(2)もう一つは、ヨハネ福音書が代表する聖書のテキスト自体が証する、
主イエスの自己意識にキリスト論の起源を見る立場。
私もこの立場で、G.Vosやレイモンド・E.ブラウンの著書を重視するのです。
 この点は、まさに確信に満たされて宣教する使命と結ばれていると私は見ます。
この素朴な理解に従い歩める日々、嬉しいです。