『丸太の笑いから喜びカタツムリの歩みへ』  その4

[4]喜びカタツムリの歩み
 退院(4月2日)の日取りが定まった頃でした。あるときから、天才バカボンのパパの言葉が頭に浮かび、聖書全体のメッセージを込めて、
「それでいいのだ!」と力を込めて発言するようになったのです。
 おかしな話です。子供たちが小さい頃、テレビであの漫画の番組を見ている時は、苦りきった態度で私はいたのですから。
 天才バカボンのパパにあきれる来客もおられました。
しかしよくしたもので、「それでいいのだ!」の一声に励まされたと喜んで病室を後になさる方が結構多かったのです。
 
 4月7日退院後の生活の中で、基本的な自覚・自己イメージがますますはっきりしてきました。「喜びカタツムリ」です。脳梗塞発症当初の丸太と同様に、どのような経過でとは説明できないものの、気付いたときは、自分の内に確かなイメージとして定着していたのです。

喜びカタツムリの歩み、ですから速さを競わない。勝った負けたの話ではない。
喜びカタツムリの歩み、ですから君代の言うように前進あるのみ。過去に縛られない。
喜びカタツムリの歩み、ですから壁をよじ登り、乗り越える。必ず直面する死の壁も。

マルコの福音書8章22−25節
「彼らはベツサイダに着いた。すると人々が盲人を連れて来て、彼にさわってくださるよう、イエスに願った。
エスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両目につばきをつけ、両手を彼に当てて『何か見えるか』と聞かれた。
すると彼は、見えるようになって、『人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます』と言った。
それから、イエスはもう一度彼の両目に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。」

脳梗塞ビフォ−・アフタ−、それは、「人を見」また「人となるため」ための歩み。
よりはっきり「人を見」また「人となる」、それが、3年間、そして今後の喜びカタツムリの歩み、二人三脚の歩み。