『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ーその13

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

『主の食卓』 マルコ6:30−44

[1]序
(1)今朝は第2主日。礼拝後のプログラムが、会衆聖歌隊、音楽委員会と役員会の三つと一番多い週です。
会衆聖歌隊の月一回の練習、その積み重ねがいかに大切か。
音楽委員会は2名で継続、1名では会にならないけれど、2名ならとやせ我慢と確信が重なり続けております。そんなに遠くない将来必ず継承の恵みを味わうに違いないと励まされながら。
役員会、この4月からは、総会で選出された3名の会計掛かりの1名が定例の役員会に出席する体制を続け、会計掛かりの負担を少しでも少なくするように、また会計の働きにより集中できるよう努力をしています。

(2)四福音書のいずれもが記している記事は、私たちが普通考えるほど多くはありません。その中で五千人給食の記事は、四つの福音書いずれもが記しています。初代教会の全体でこの記事がいかに重視されていたかを示しています。
今朝の箇所全体の流れは、以下の通りです。
弟子たち宣教活動から戻り、報告。主イエスの弟子たちに対するご配慮の中で、群衆に対するあわれみが明らかになります。さらに彼らに対する主イエスの御業をマルコは描いています。そこで群衆に対する弟子たちと主イエスご自身の態度の対比が明らかになります。この現実の中で、なおも弟子たちを用い、主イエスの食卓が繰り広げられる様をマルコは骨太の線で伝えています。

[2]主イエス、弟子たち、また群衆に対して、 6章30-34節
(1)主イエス、弟子たちに対して、30−32節
弟子たちは、主イエスの所に戻り、「自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した」(30節)のです。どのような内容を報告したか、それに対して主イエスがどのような評価をくだされたかをマルコは伝えていません。ただ報告した事実と、「人々の出入りが多くて、ゆっくり食事をする時間さえなかった」弟子たちに対して、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」(31節)と主イエスの配慮を重視します。

◆ここで、「休む」と訳されていることばを、マルコは、もう一度、ゲッセマネの園の場面(14章41節)で用いています。この場合は、弟子たちが休んではいけないときに休みほうけている姿を描いています。
「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子が罪人たちの手に渡されます」。休みについても、時と場所をわきまえることが大切。
参照マタリ11章28節、主イエスが与えくださる本当の休み。しかしそれは、主イエスのくびきを担うため。
またルカ12章19節、人間が自分自身で備えたと錯覚する休みのはかなさを明らかにしています。

(2)主イエス、多くの群衆に対して、33、34節
弟子たちは休むために出掛けます。
しかし彼らが実際に休んだのかどうか不明のまま、マルコの視点は、弟子たちから主イエスご自身と群衆に移ります。マルコの関心がどこにあるかを示します。弟子たちは群衆を養うことができません。またその積もりもないことが明らかになります。
①主イエス、群衆に対してどのような思いを抱いておられるのか。
主イエスが、群衆に抱いた思いを理解するため、その群衆に対して主イエスが何をなしたかを注意し推察したいのです。
主イエスがなされたこと、それはいろいろ教えられたとあるように、みことばの説き明かしです ですから群衆に対して深いあわれみを主イエスが持たれたのは、「主のことばを聞くことのききん」(アモス6章11節)のためであったと断定できます。参照Ⅰサムエル3章1節、28章6節、ⅡⅠ歴代誌15章3節、エゼキエル7章26節。
 「彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ」
イ。「羊飼いのいない羊のようである」
  参照マタイ9章36節、民数記27章17節、エゼキエル34章5節、ゼカリヤ10 章2節。

ロ。「深くあわれみ」
8章2節でも用いられている、主イエスの群衆に対する思いを示す(参 照マタイ9章36節、14章14節、15章32節)、腸(はらわた)が痛むを意味する特に印象深いことば。ある方々は、ウチナーグチの「ちむぐりさ(肝苦さ)」がこれに当たると言われます。いかがでしょうか。
ルカの福音書においても、主イエスのナインのやもめに対する場合 (ルカ7章13節、良きサマリヤ人の強盗に襲われた人に対する思い(10章33節)、放蕩息子の父親が、帰る途中の息子に対する心(15章20節)など、一つ一つ大切な用例です。

②「いろいろ教え始められた」
参照ルカ24章32節。

[3]主の食卓」 6章35−44節
「そのうちに、もう時刻もおそくなったので」(35節)とあるように、時間の経過のうちに、群衆は食べ物の必要に直面します。この群衆に対する弟子と主イエスの対応のしかたの対比を明示しながら、マルコは主イエスの食卓が繰り広げれる経過、その中で弟子たちも用いられて行く様を描いています。
(1)弟子たちと主イエスの対応の対比
35、36節、37節後半。

(2)主イエスの食卓、主イエスのもとでの弟子たち
①確認、十分でないけれど、何もないわけではない。
38節

②弟子たちの役割、なおも弟子たちを用いる主イエス
 「弟子たちにお命じになった」(39節)
「人々に配るように弟子たちに与えられた」(41節)。

③「人々はみな、食べて満腹した」(42節)、「十二のかごにいっぱい」(44節)

[4]結び (1)弟子と群衆
九十九匹の羊の譬え(ルカ15章3−7節)の現代における適応。
ある先生が、「日本の教会は、野原にいる一匹の羊(教会員)のことだけを考えて、いなくなった九十九匹の羊(教会外の方々)のことを忘れているのではないか。自分は九十九匹の羊に福音を伝えたい」との意味のことを話され、そのように実践なさったご生涯を覚えるのです。
 首里福音教会にとって、FM21の放送や首里福音学生センター講演会の意味。何よりも、私たちの家族、友人、知人に対する私たちの特権と責任。

(2)主の食卓
ヤイロの娘の食事を配慮くださる主イエスは(5章43節)、、また五千人の人に食事を与え、主の御用のため整えなさいます。
そして私たちも、神の口からでる一つ一つのことばにより生きよ(マタイ4章4節)と励ましと戒めを与えられています。
聖書とキリスト者の関係を受け止め、聖書日課の実践の手掛かりとして二つの手掛かりを励ましとしたいのです。
①新聞を読むように聖書を読む。
 
②葉書を読むように。
荒野を旅したイスラエルがマナを日々食べて生かされたように、私たちも同じくみことば・聖書を食べつつ歩み、読みつつ歩みを進めたいのです。

(3)聖餐式の意味
2004年3月までの毎月第1主日礼拝、聖餐式を持つ中で。
2004年4月からの毎月第1主日礼拝、聖餐式を持つ中で。
この二段構えで、今朝の箇所に示されている、主イエスの養いを聖餐式との関係で学びたいのです。
私たちは主の食卓は招かれています。そのため備え整えられて出席したい。 また私たちの日常の食卓へ、主イエスを迎えるのです。そのとき驚くことには、それが主の食卓になるのですから。