『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ーその12

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

『黙 することなくく』 マルコ6:14-29
[1]序
(1)暑さの続く7月の日々です。その中で今朝もこのように主日礼拝に集い得ますこと、まさに「エリムに集う楽しきとき」のようです。(出エジプト15章17節、「こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の泉と七十本のなつめやしがあった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した」)。

(2)今朝の箇所6章14−29節は、特徴のある箇所です。父なる神についても、主イエスにも、また主イエスの弟子たちについても一言も触れていません。
そのような箇所を味わう手掛かりとして、前後関係におけるこの箇所の位置、この箇所をこの位置に置いたマルコの目的を確認したいのです。
まず位置について。
 6章13節までは、12弟子の宣教活動についてマルコは記しています。また6章30節以下には、弟子たちが宣教活動から帰還、活動報告をする場面が展開されています。ですからこの箇所には、弟子たちを宣教活動に派遣した後、主イエスが何をなされていたかを書くのが自然です。
ところが実際には、バプテスマのヨハネ殺害にからむ領主ヘロデの惨憺(さんたん)たる家庭状態をマルコは実写しています。
ではなぜマルコはそうしたのでしょうか。
14節にヒントがあります。「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にもはいった」とあります。6章6節にマルコが印象深く記した主イエスご自身の宣教活動や13節に要約している弟子たちの宣教活動の広まりや影響がいかなるものであるか、ヘロデにまで評判が伝わったのです。
しかしそれだけなら、14節前半だけでよかったはずです。14節後半以下これほど詳しく生き生きと描いているのは、十二弟子たぢが福音を宣べ伝えた地域がどのような状態であったかを明示するためと受け止めたいのです。福音が宣べ伝えられているところ、そこは、これこのように混乱しきったとんでもない支配階級が現に欲しいままをなしている場所・地域にほかならない。しかし福音は、『なおも前進』であり、まさに『黙することなく』なのです。
 マルコは、「やみ」を活写し、まさにそのことにより「やみの中に輝いている」光(ヨハネ1章5節)を力強く指し示しているのです。

[2]14−29節の内容
以下三点を注意しながら、この箇所の粗筋をたどります。
(1)「ヘロデ王」(14節)
主イエスのご降誕の記事に登場する、普通ヘロデ大王と呼ばれる「ヘロデ王」(マタイ2章1節)と第四の妻の間に生まれた息子ヘロデ・アンテパスのこと、ガリラヤとペリヤの国主でした。
ヘロデ大王は、ローマの権力を後ろ盾に領土を拡張、内政的にも独裁的権力を確立していきました。ところがその家庭は、十人の妻による十五人の子供たちの間における後継者争いと、彼らを巻き込んだ謀反(むほん)に対する疑念により処刑が繰り返される惨憺(さんたん)たる状態でした。
そうした背景の中で、アンテパス自身も、最初アラビアの王女と結婚していたにもかかわらず、ローマ訪問の際、異母兄ピリポの妻と会い、彼女と結婚するため、妻を離縁。ヘロデヤは夫と別れ、娘を連れてガリラヤでアンテパスと生活するようになったのです。

(2)言い張るヨハネ(18節)
 アンテパスとヘロデヤがなしていたことの一部始終を人々は見聞きしていましたが、領主のなすことと何も言わなかった、少なくとも表立っては。
 しかしバプテスマのヨハネは違います。「『あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です』と言い張ったからである」(18節)とある通りです。ヨハネは、判断の基準(レビ18章16節)に基づき公的に発言し続けたのです。
(3)「ところが、良い機会が訪れた」(21節)
良いことにも、悪いことにも機会はあるものです。悪いことの良い機会というのは、その内容から言えば、実はとんでもない悪い機会です。盆に載せた生首を娘が母親に渡す結末に至る発端となった機会なのですから。

[3]似而非(にてひ)なるもの」
この箇所には、前後の記事に描かれている物事と似ているが、実は大きくは違うものが登場しています。その二、三を見たいのです。
(1)ヘロデの派遣、17、27節と主イエスの弟子の派遣、7−13節。
権力者ヘロデは人を派遣し、自分の意図を実行させる権利があり、それを実行している醜悪(しゅうあく)な場面をマルコは描きます。
「実は、このヘロデが、・・・人をやってヨハネを捕らえ、牢につないだのであった」(17節)。
「そこで王は、すぐに近衛兵をやって、牢の中でヨハネの首をはね」(27節)
主イエスの12弟子の派遣(7−13節)の場合と鋭い対比。

(2)「ヘロデヤの娘」(22-28節)
私たちは、マルコ5章21−43節で、娘二人、特にそれぞれの12年を見ました。 一人はヤイロの娘。ヤイロは、主イエスの足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願って、「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください」(5章23節)と訴えたのです。父の愛のもとで成長して来た娘です。
もう一人は、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい」(5章34節)と主イエスのことばにより、過去の縄目から解き放たれ、未来へと開かれた、主イエスの娘。
しかし今、支配階級の豪華な建物で繰り広げられる祝宴、そこに入ってくる、「ヘロデヤの娘」(22節)の姿をマルコは描いています。不気味さがそのまま絵になったように場面です。不法に基づくとは言え、義理の父である者の人々への見栄のため犠牲になり、さらに実の母の目的を達するための道具とされている、「娘」。この娘の様を描くマルコの意図、それは何か。

(3)母二人(マルコ6章14−29節、7章24−30節)
この場面に登場するヘロデヤ。マルコは彼女の姿を描くと同時に、7章24-30節において、もう一人の母親、同じく娘を持つ母親を紹介しています。娘を自分に委ねられた賜物、貴い人格として受け止め、彼女のために生き抜く母親については、後程詳しく見て行きます。
母親であるだけでなく、いかなる母親として生きるか。人であるだけでなく、いかなる人として生きるか、各自が生活・生涯をかけてこの問いに応答する貴い使命を委ねられている事実を知ります。

[4]結び

(1)マルコに学ぶ、キリスト者・教会の視点・視野と営み。
私たちが何をどのような視点から見、そこでどのような営みをなすべきかマルコは大胆に描いています。ヘロデ一族の惨状に目を閉じてはいけない。福音を聞き、悔い改め、解き放たれ、癒された人々(6章12,13節)は、そして私たちは、この状況に生かされているのです。家庭がめちゃくちゃになってしまっている現状のただなかで、決して投げ出さず、あの驚くべき恵みに応答するのです。
「 神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです 」。

(2)「黙することなく」
パブテスマのヨハネが指し示す、キリスト者・教会のあるべきことば。
①社会の現実に対して。
 黙していなければならないこと。
黙した方がよいこと。
黙してもよいこと。
黙してはいけないこと、社会公義が無視され、踏みにじられるならば。 「主は何をあなたに求めておられるのか。
それは、ただ公義を行ない。誠実を愛し、
へりくだって
あなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6章8節)。

②主イエスを指し示す指としてのバプテスマのヨハネのことば。印象的な場面、ヨハネ1章35−37節をお読みします。
 「その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、『見よ。神の小羊。』と言った。ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。」
 悲惨な殺害後も、ヨハネの主イエスについてのことばは実を結び続けたのです。「黙することなく」語ったため、ヨハネは投獄され、やがてあのように殺害されてしまったのです。しかし彼の主イエスについてのことばは、彼の殺害後も、「黙することなく」なのです。そうです。あのヘブル11章4節後半でアベルについて語られていることが、パプテスマのヨハネにとっても事実となっているのです。

「 彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています 。」