『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ーその14

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

『悟るべき事』 マルコ6:45-56
[1]序

(1)今朝は第3主日、礼拝後、分会があります。壮年会、婦人会、青年会と分かれて、短いけれど貴重な交わりのときを持ちます。
 女性であること、男性であること、今青年であること、その一つ一つは偶然でも、意味のないことででもなく、父なる神からの恵みの賜物です。恵みである事実をともに感謝し、恵みに応答するため励まし合う交わりです。ご参加ください。

(2)今朝の箇所には、二つの地名が記されています。一つは、45節の「ベッサイダ」、他は、53節の「ゲネサレ」です。この地名を手掛かりに、45-52節を、ベッサイダへの向けて湖上のできごと、53-56節をゲネサレでの出来事と二つに分けることができます。
今朝は、前半を主に取り上げ、そこに見る弟子たぢ(52節に見るマルコ自身のことばに注意しながら)また主イエスご自身の姿に注意したいのです。 その上で、主イエスの弟子たちに語りかけられることば(50節)に、特に焦点を絞ります。

[2]弟子たちの主イエス、 45-52節
(1)悟ることのない弟子たち
この場面に登場する弟子たちの言動に対して、52節でマルコは、「というのは、彼らはまだパンのことこら悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである」と意見・判断を明らかにしています。
マルコが明らかにしている視点に立ち、45-52節に見る弟子たちについて三つに分け、彼らの姿がどのようなものであるか確認します。
①主イエスに強いて舟に乗せられ、目的地ベッサイデへ向かう(45節)
この場面の発端(ほったん)に、「それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗りかませ」(45節)とあります。
 「強いて」と訳されていることば、「この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい」とあるように、「無理に」とも訳されることばです。強いる人の意志や考えが、強いられる人に大きく影響を及ぼすことを示しています。
ここで、1章12節を思い出したいのです。主イエスの荒野の誘惑・体験を記録の最初に、「そしてすぐに、御霊はイエスヲ荒野に追いやられた」とあります。
 また主イエスが洗礼を受けられる場面(1章9-11節)。

②湖上の真中で、向かい風のため漕ぎあぐねている。

③湖上を歩く主イエスを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげる。

(2)主イエス
①祈り給う主イエス、6章46節、「それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた」。

②見給う主イエス、6章48節、「 イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった」。

③来り、通り過ぎようとなさる主イエス、6章48節、「夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった」。

④語り給う主イエス

[3]主イエスの弟子たちへのことば 6章50-52節
(1)「しっかりしなさい。わたしだ」(6章50節)。
 主イエスに対する認識・信仰告白こそ「しっかり」するための鍵。

(2)「恐れることはない」と言われた。
 恐れる可能性のある者を見捨てることな九、呼びかけなさる。

[4]結び
(1)45-52節と53-56節
 45-52節に見る現実の中で、53-56節に見るゲネセレにおける恵みの御業の進展。

(2)心を開き、悟る者として、ヤイロ(5章22節)のように。
「すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し」。