使徒の働き味読・身読の手引き・その38

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告


「朽ちることのない方」
使徒13章32ー41節

[1]序 
 今朝クリスマス礼拝では先週に引き続き、ピシデヤのアンテオケのユダヤ人の会堂でパウロが宣べ伝えた福音の内容を味わいます。
32節から41節で、パウロが宣べ伝える「良い知らせ」の豊かな内容を二点に絞りルカは伝えています。
①第一は、イスラエルに送られた救い主イエスは、「朽ちることのない方」になられた事実。

②第二は、このお方を信ずる者に、「罪の救し」(38節)が与えられる喜びのおとずれです。

[2]朽ちることのない方 
 パウロが33節から37節で旧約聖書を引用し説明している宣教の中心は、以下の点です。(1)「あなたは、あなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない」(35節)とのダビデの預言は、ダビデ自身を指してはいない。確かにダビデは、神のみこころに仕え忠実な生涯を送りました。しかしダビデも他の人々と同じように死に葬られ、墓の中で朽ち果てたのです(2章29節参照)。ですから、「あなたの聖者を朽ち果てるままにしてはおかない」との預言は、ダビデ自身を指してはいないのです。

(2)この預言は、十字架上で死に葬られ、三日目に死人の中から復活した主イエスにおいて成就したのです。救い主イエスは、私たちの身代わりとなり死んでくださり、葬られたばかりでない。「朽ちることのない方」となられ、「死は勝利にのまれた」(Ⅰコリント15章54節)のです。「朽ちることのない方」である復活のイエスは、[いつも生きていて、私たちのために、とりなしをしておられるのです。それ故、ご自身を通して神に近づく人々を完全に救うことがおできになるのです」(ヘブル7章25節)。

[3]罪の救し
 パウロは、「朽ちることのない方」となられた主イエスの復活を強調した直後、「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の救しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください」(38節)と、迫っています。「朽ちることのない方」・復活のイエスによってのみ罪の救しが与えられる、主イエスを信ぜよと。
(1)主なる神がもともとご計画し、創造なさった人間本来のあり方から罪の故にずれた者、的外れな存在となってしまっている、これが私たちの現実の姿です。いのちの源である神から離れて自己中心になり、勝手に生きているつもりでも、その行く先は朽ち果てる以外にない。この私たちの現実にまで主イエスは降りて来てくださり、十字架で死に葬りを経験さなったのです。そして朽ちる果てるかに見える、「死者の中から」よみがえられ、もはや朽ちることのない方となられたのです。

(2)さらにパウロは、「信じる者はみな、この方によって、解放されたのです」(39節)と宣言しています。主イエスの死が私のためと主イエスを信じて、主イエスに接ぎ木され一体とされた者たちは、主イエスの復活にあずかり、根本的には死から解き放たれるのです。もはや朽ち果てる古い存在ではなく、「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5章17節)とパウロが指し示す新しい存在とされています。参照ピリピ3章21節。
朽ちることのない方・復活の主イエスにあって、罪と死はもはや最終的には私たちを支配するのではない。これこそ、パウロの宣べ伝える「良い知らせ」の中心的な内容です。パウロは、この「良い知らせ」を結ぶにあたり、41節と42節においてハバクク1章5節「異邦の民を見、目を留めよ。
 驚き、驚け。
 わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。
 それが告げられても、あなたがたは信じまい。」の預言を引用しながら、警告を与えています。

[4]結び
アブラハムに与えられた約束から二千年、ダビデに対する約束からでも千年。アブラハムダビデへの約束通り、神は救い主イエスを送られたのです。
この救い主の誕生のニュースは、小アジアのアンテオケにおいてと同じく、今、日本においても宣べ伝えられています。朽ち果てる者としてのあり方から解き放たれ、主イエスにあって新しい存在とされる希望に生きよ(Ⅰコリント15章58節「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」)。
これがクリスマスのメッセージです。