使徒の働き味読・身読の手引き・その37

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告


「約束に従って」
使徒13章13ー31節

[1]序
 今朝は、使徒パウロがピシデヤのアンテオケでなした宣教(2、3章のペテロの宣教、7章のステパノの宣教)を味わいます。
 13節から16節には、パウロの宣教の背景。
ピシデヤのアンテオケは、海抜1,200メートルもあり、地方一帯の民政と軍事上の中心地で多数のユダヤ人が住み、ユダヤ人の会堂もあったと言われます。
パウロの一行は会堂での礼拝に参加したのです(5節参照)。会堂では、会堂管理者が、パウロの一行を旅の途中にある律法の教師と見て、説教を依頼します。
パウロはこの機会を見逃さず、大胆に説き明かします。「イスラエルの人たち」との呼び掛け、「ならびに神を恐れかしこむ方々」とパウロは直ちに続けます。「神を恐れかしこむ者」とは、異邦人でありながら、真の神を礼拝しユダヤ人の会堂に集う人々(10章のコルネリオ参照)。
そうです。ユダヤ人と異邦人の両方に、主イエスにある「罪の救し」(38節)を経験するようパウロは呼び掛けています。

[2]約束に従ってー過去の事実からー
(1)17節から23節で、パウロは、旧約聖書の大きな流れを指し示しています。
その中でイスラエルの民をエジプトから解き放ってくださる神ご自身の御業、荒野で民を「養われ」た(18節)事実など実例をあげ、アブラハムからダビデまでの約千年間、イスラエルの民の様々な歩みを通し神は約束に従い民を導かれ、ご真実を現されたとパウロは確証します。

(2)22節と23節では、神のご真実が頂点に達する主イエスの出来事を、ダビデに対する約束との関係で指し示します。
22節では、サウロの王国が継続しない事実との対比で、ダビデへの約束を引用。しかしダビデ王朝は、その子ソロモンに受け継げなれながら、ソロモンの死後分裂、紀元前722年北イスラエルはアッシリヤにより滅亡。また南ユダも、紀元前587年バビロン捕囚に直面します。
こうした中で、預言者エレミヤ(23章5節、30章9節)やエゼキエル(21章27節、34章23、24節、37章24、25節)などは、来るべきメシヤ・キリストを通して、ダビデに対する約束が成就すると宣言します。
23節では、ダビデに対する約束が、ダビデから主イエスの誕生までの一千年、真一文字に持ち運ばれ、成就した事実を明言。

[3]約束に従ってー現在の事実からー
 
 24節と25節、主イエスの現れを洗礼者ヨハネは明瞭に証言。二千年前のアブラハム、一千年前のダビデの事実に基づくばかりでなく、同じ時代に属する洗礼者ヨハネの証言に基づいても、神は約束に従い救い主イエスをお送りになったとパウロは確証しています。
(1)福音宣教の事実を通して、26節。
パウロは、「この救いのことばは、私たちに送られているのです」と、自分が宣べ伝えたいことが何かを明らかにしています。
神が約束に従い、救い主イエスをお送りくださったことは、一回かぎり歴史の一点に現実となった出来事です。しかしそれだけでなく、救い主イエスにある救いが宣べ伝えられる所では、いつでも、どこでも約束に従い神はご真実を現してくださいます。ピシデヤのアンテオケでの福音宣教は、単なる事柄ではなく、神がご自身の真実を新しく、今、ここで現してくださる出来事なのです。

(2)民の不従順を越えて。
27節から29節では、ペテロ(2章23節)やステパノ(7章32節)の宣教の場合と同じく、神の真実に逆らい救い主イエスを十字架につける、エルサレムの住民や指導者の不従順をパウロは指摘しています。
しかも人々の不従順があからさまになるとき、「しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです」(2章24節参照)と、罪と死を貫き通す復活の光を証しているのです。
そして31節では、主イエスを十字架にかけて殺してしまったエルサレムで、「きょう」復活の事実が宣べ伝えられているとパウロは力強く証言します。

[4]結び

 救い主イエスの一回限り現実となった十字架の死と復活が宣べ伝えられるとき、いつでも、どこでもそこで新しく神のご真実が明らかにされるのです。そうです。新しい神の御業が押し進められます。