『礼拝に生きる民』  申命記16章1−22節


『礼拝に生きる民』
申命記16章1−22節

2013年8月18日(日)
グレイス宣教会・東京チャペル主日礼拝

御父、御子、御霊、生ける三位一体なる神の御名を讃美します。

[Ⅰ]序
 この午後は、申命記16章1−22節を思い巡らし、主なる神の恵みを新しく教えられ、8月最後の日々を前に、恵みに答えて歩みを重ねていくため整えられたいのです。
(1)申命記全体の内容は二つの部分に大別できます。
 ①第一は、出エジプトの解放後の歩みを回顧している部分、ホレブからヨルダンの荒野の旅(1章−4章)とホレブで享受した十戒及びその他の規定(5章―26章)を書き記しています。

 ②第二は、将来を展望している箇所で、ヨルダンを渡ってからの生活、モーセからヨシュアへの継承に焦点を絞っている部分(27章以下)です。
この二つの部分によって申命記全体は構成され、出エジプトとの出来事以来の事柄を回顧し、過去の歩みを締め括る。同時にカナン入国後の将来の生活を展望し、ヨシュア記以下の出発点となり、過去から将来への橋渡しの役割を果たしています。

 今、私たちが参加している主日礼拝が同じです。私たちは、この主日礼拝において、先週一週間の歩みを振り返り回顧し主なる神の御名を崇めつつ、来るべき新しい一週間の歩みに備え、全能者の導きを待ち望んでいます。申命記を貫いている、過去を回顧し将来を展望する二つの中心、この二つの側面を私たちが今、参加している主日礼拝の中にも見るのです。
 
(2)次に16章の申命記全体の中でどのような位置を占めているのか確認します。
 16章1−17節には、イスラエルの三つの大きな祭り(イ)過越の祭り、(ロ)七週の祭り、(ハ)仮庵の祭りについての規定が明記。
 そして18節以下には、狭い意味での宗教儀式よりさらに広い領域において、主なる神を礼拝する者に相応しい生活を毎日どのように生きていくべきか教えています。
 そうです。申命記16章は、主日礼拝と月曜日から土曜日までの日々の生活の結び付き、礼拝の生活について、私たちに大切な示唆を与えてくれているのです。
特に、二つの面に注意します。第一は礼拝の基本、第二に礼拝の広がりについて。
 
[Ⅱ]礼拝の基本
(1)原救済と現救済。
 (イ)主なる神の救いのみ業が第一(神の恵みの先行性)。
 元々の救いのみ業と、現在の救いのみ業と切り離し得ない関係。徹頭徹尾主なる神の救いのみ業が第一である事実です。主なる神が中心なのです。
特に17節を注意。「あなたの神、主が賜った祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。」
主なる神から祝福を得るために、神の民は礼拝するのではないのです。そうではなく、既に祝福を受けている故に、心よりの感謝をもって、主なる神を礼拝するのです。
 
(ロ)自発性。
 感謝をもって主なる神を礼拝する礼拝の基本は、さらに礼拝が全く自発的なものであって、強制されてなされるものでない面からも、確認できます。
16章10節、「あなたの神、主のために七週の祭りを行ない、あなたの神、主が賜る祝福の応じ、進んでささげるささげ物をあなたの手でささげなさい」。
 この礼拝における自発性を最も良く示しているのは、主なる神を礼拝する際、神の民の心の中に溢れる「喜び」です。この喜びこそ主なる神を礼拝する神の民の特徴の一つです。同じく私たちの主日礼拝の特徴なのです。申命記16章11,14,15節それぞれの最後の部分を特に注意してお読みします。
 「喜びなさい」(11)、「共に喜びなさい」(14)、「あなたは大いに喜びなさい」(15)。

[Ⅲ]礼拝の広がり(喜びの広がり)
(1) 喜びの広がり。
 次に、主なる神を礼拝する恵み。この恵みは必ず広がる特徴を持ちます。
16章11節、「あなたは、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、あなたがたのうちの在留異国人、みなしご、やもめとともに、あなたの神、主の前で、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、喜びなさい。」
 ともに喜ぶ。まず家族の中で、さらに社会的広がりをもって、礼拝の輪が広げられて行きます。
 16章14節も同じ点が強調されています。
 「この祭りのときには、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、在留異国人、みなしご、やもめも共に喜びなさい」、「共に喜び」「ともに礼拝」する。

今ここで、この主日礼拝で私たちも経験するのです。さらに様々な人へ。この「共に喜び」「共に礼拝する」恵みが人から人へ広げられて行く。これが伝道なのです。

 (2)全生活、全領域に。
 ここで特に16章15節前注目。「あなたの神、主のために、主が選ぶ場所で、七日間、
祭りをしなければならない」。その後に、「何故ならば」と理由が明らかにされて行きます。「(何故ならば)『あなたの神、主が、あなたのすべての収穫、あなたのすべての手のわざを祝福されるからである。あなたは大いに喜びなさい。』」
 イスラエルの民の生活の基本である農業生産を、主なる神は祝福してくださいます。あの収穫、この収穫というだけでなく、「すべての収穫」を祝福してくださっているのです。
単に農業生産ばかりではありません。「あなたのすべての手のわざ」を祝福してくださっているのです。
全生活、全領域に、主なる神の祝福が及んでいる事実を、しっかりと見抜く信仰の目。礼拝の心。平凡に見える、日常生活の細々とした、ひとつひとつの事柄から、波瀾万丈の生涯の全ての面に至るまで、ただならぬ主なる神の恵みに支えられている事実を見て取り、喜びと感謝に満たされて主日礼拝に出席するのです。
さらに主日礼拝ばかりでなく、主日礼拝を中心としつつ週日の日々がまさに礼拝の生活なので
す。申命記16章16節後半をお読みします。
「……あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。」
 私たちが、主なる神の御前に差し出すことの出来るものは、一体何でしょうか。それは主なる神が私たちの創造者であり、救い主であることを知り悟って、心より喜び感謝する。主日礼拝であり、礼拝の生活です。神を知り、神を喜ぶことこそ礼拝の中心であり、人生の主なる目的なのです。
 このように、主日礼拝を中心に礼拝の生活をなしつつ、16章18−20節に見るように、私たちは正義を、ただ正義を求めることを命じられています。さらに、16章21,22節に明らかに示されているように、一切の偶像礼拝を厳しく禁じられているのです。
 
[Ⅳ]結び 
 今週の日常生活、当たり前の毎日の生活の中に、ただ事ではない神の恵みを見抜く信仰の目を与えられていたい。神の恵みの現実をしっかり見通し、感謝のいけにえを持って主日礼拝に集う。そこでさらに大きな祝福を受ける。主日礼拝において受けた恵みの感謝の現れとして、週日の日々を礼拝の生活として前進し続ける。ここに礼拝のリズムがあるのです。感謝のいけにえを持って主日礼拝に集うのでなければ、主日礼拝で神の恵みを認め、身に受けるのは困難です。主日礼拝を重んじなければ、週日の日々の生活を礼拝の生活として神の御前に過ごすことは困難です。
 主日礼拝を大切にし神の恵みに生かされる者として、地の塩、世の光として、日々この世に生かされるのです。世俗の中で主なる神のみを礼拝し、主なる神のみに従い、偶像礼拝を厳しく拒絶し、正義を求めつつ生かされるのです。それが礼拝です。これが主日礼拝から主日礼拝へと歩む、神の民の歩みです。主日から主日へ前進する、教会の歩みです。神の恵みの中に生かされるキリスト者の歩みです。教会の前進です。

お祈りいたします。

 父なる神さま。
連日の暑さの中、東京チャペルの一人ひとりが、また群れ全体が主日から主日へと礼拝の民として歩みを重ね、礼拝に生きる群れとして前進し続けることを許され、心より感謝いたします。
主なる神を第一として、一人ひとりが群れ全体が神を知り、神を喜ぶ経験を深め、広めていくことができますように。東京チャペルにおいて東京チャペル、を通して、神を喜ぶ喜びの広がり、礼拝の広がりを週毎に、日毎に現わされて行きますように。主日から主日へと前進し続ける神の民として、一人ひとりが、また群れ全体がこの世にあって、この地にあって、正義を求め、偶像礼拝を厳しく拒絶できますように。恵みに満ちる御名によって。感謝とともに祈ります。アーメン。