使徒の働き味読・身読の手引き・その16

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告。

「ステパノの宣教」(Ⅲ)
                 使徒の働き7章39節ー53節

[1]序
 今朝は「ステバノの宣教」の第三回として、ステパノの宣教の最後の部分・39ー53節を味わいます。
 最初に注意したいのは、7章39節が38節と鋭い対比で語られている点です。38節では、モーセが荒野の集会で生けるみことばを授かり民に与えた事実を描いています。
ところが39節では、モーセを民が拒絶した様を描きます。そして43節までには、モーセ時代に始まる偶像礼拝と神の審判について示しています。さらに44節から46節では、荒野のあかしの幕屋とソロモンの神殿などについてステパノは説き明かしています。
 
[2]民の反逆と神の審判
(1)民の反逆。
「私たちの先祖たちは彼に従うことを好まず、かえって彼を退け」(39節)とステパノはモーセに対する民の反逆を描き、「エジプトをなつかしく思って」とその理由を指し示しています。
「なつかしく思って」とは、「心中で振り向く」(新改訳欄外注)ことです。民は、「私たちをエジプトの地から導き出したモーセはどうなったかわかりませんから」との口実をもって、「私たちに先立って行く神々を作って下さい」(40節)とアロンに要求するのです。モーセの約束のことばを信ぜず、モーセを派遣なさったお方のことばにとどまろうとしなかったのす。民は、「子牛を作り、この偶像に供え物をささげ」る自分勝手な道を選ぶのです。

(2)神の審判。
反逆の民に対して、神は二種類の審判をくだされるとステパノは指摘します。
①第一は、「神は彼らに背を向け、彼らが天の星に仕えるままにされました」(42節)とあるように、悪を行ない続けるままに放置なさのです。なすがままにさせること、そのことがまさにさばきなのです(ロ−マ1章24、26、28節)。

②第二の審判は、「バビロンのかなたへ移す」(43節)とある、バビロン捕囚です。

[3]荒野にあかしの幕屋
 ステパノは旧約の預言者たちと同じく(エゼキエル20章27節)、民の歴史を偶像礼拝のそれとして非難します。
しかし同時に、「私たちの先祖のためには、荒野にあかしの幕屋がありました」と印象深いことばをもって、神の救いの道を宣言しています。
幕屋は、主なる神が民に呼び掛け、民が答える場です。荒野の幕屋は、神のことばに基づく。「それは、見たとおりの形に造れとモーセに言われた方の命令どおりに、造られていました」(ヘブル8章5節参照)。そうです。神のみことばに基づく礼拝の道です。
 
移り進む。荒野の幕屋は、荒野を旅するイスラエルの民と共に移動しました。幕屋が移り進むのに従い、民は歩みを進めたのです。
 45節から47節においては、幕屋からソロモンの神殿への移行を取り上げています。しかし荒野の幕屋は、ソロモンの神殿において完全に成就したとステパノは見ていません。ソロモン自身その事実を認め告白しています(Ⅰ列王8章27節、「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。」)。

[4]結び
 ステパノが強調する「荒野の幕屋」は、真の幕屋・真の神殿である主イエスを指し示しています。
ヨハネ福音書1章14節、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(直訳、「私たちの間に幕屋を張られた」)、
また2章21節、「しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである」を注意したいのです。
主イエスこそ、真の幕屋であり、私たちの真ん中に、私たちの先頭に、そして最後にあって、荒野を旅する歩みを導いてくださいます。主イエスこそ、真の神殿なのです。