ルカの福音書味読・身読の手引き・その87

☆沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告。


「三度わたしを知らないと」
ルカ22章54−62節
[1]序
 
 今朝は11月の第一主日礼拝。1993年も11月と12月残すところ2箇月になりました。11月私たちは二つの特別な集会を予定しています。
一つは例年のように六姉妹教会の協力伝道。今年は青森県五所川原教会の田村先生をお招きし、11月23日−28日の期間、首里福音教会の特別集会は、26日(金)午後7時半よりです。『首里福音だより』22号を活用して、家族、友人や知人をお招きしましょう。
 もう一つは、今回はじめての試み、第一回一日祈祷日(『首里福音』334号、「11月23日(金)一日祈祷日」参照)。秋の教会総会の報告や議題、特別集会、一人一人のまた群れ全体の祈りの課題をもって各自それぞれのあり方で一日祈りに専念できれば幸いです。
 これら特別の集会は大切です。しかしその土台に、いつものような主日礼拝があります。11月の主日礼拝宣教計画は以下の通り。
① 7日 ルカ22:54ー63 『三度わたしを知らないと』
②14日 ヨハネ21:15ー29『わたしを愛しますか』
③21日 ルカ22:63ー65 『一晩中』
④28日 ルカ22:66ー71 『しかし今から後』
①と②においては、ペテロが直面した、主イエスに対する二つの関係、主イエスを知ると主イエスを愛する課題が中心です。
私たちにとっても主イエスを知るとは,また主イエスを愛するとはいかなる生活と生涯を意味するのでしょうか。ペテロに私たち一人一人そして群れ全体に問いかけられている主イエスのみこえを聞き分け応答したいのです。
 ③と④は、使徒信條において、「ポントオ・ピラトのもとに苦しみを受け」、また「天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」と告白している事実にかかわります。私たちが知り、愛する主イエスはどのようなお方なのでしょうか。主イエスの苦しみと栄光の主イエスのお姿を通しはっきり教えられたいのです。そうして降誕節を迎える備えをしていきます。1994年1月から3月、主イエスの導きを求めつつ、ルカの福音書の最後23章と24章を読み進め、1993年度の締めくくり同時に1994年度の備えの時を持ちます。
復活の主イエスの証人として生かされているキリスト者・教会の恵みの立場についてよく教えられ、そのように生かされたいのです。
 続く1994年度の主日礼拝では、Ⅱコリント人への手紙に入りたく願っています。
「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」(ピリビ1章29節)、このパウロのことばの意味を真に味わいたいのです。

 Ⅱコリント人への手紙の次ぎは、旧約聖書ミカ書です。
「主はあなたに告げられた。
  人よ。何が良いことなのか。
  【主】は何をあなたに求めておられるのか。
  それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、
  へりくだって
  あなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6章8節)を中心に、私たちが秋の教会総会で、「首里福音教会の90年代後半の歩みについて」(『首里福音』334号、「秋の教会総会の報告」参照)確認したことが、主日礼拝を中心とした私たちの実際の生活において実現されるよう祈り進みましょう。
こうした流れの中で、今私たちに与えられている4回の主日礼拝を中心にした恵みの11月を大切にしたいのです。主イエスからの恵みを無駄にすることなく、主イエスのためにはどんな大きなまた小さな応答も無駄ではないことを感謝しつつ。
 
 ルカの福音書22章54ー62節で描く場面を、他の福音書でもそれぞれ特徴のある仕方で描いています。各福音書の描写の間には、基本的な一致と細部における違い・特徴があります。ルカ特有の描写として第三回目のペテロの主イエス否認とその直後主イエスのペテロに対する態度・お取り扱いに的を絞りたいのです。

[2]「ペテロは」、ペテロ三度主イエスを否認(54ー60節)
 背景。54節後半、「彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た」→逮捕とサンヘドリン(議会)による審理(66節以下)の間、主イエスは大祭司の家の庭に連行されたのです。「ペテロは、遠く離れてついて行った」(33節参照)。
(1)一回目の否認
①「すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。『この人も、イエスといっしょにいました。』と言った」(56節)。

②「ところが、ペテロはそれを打ち消して、『いいえ、私はあの人を知りません』と言った」(57節)。

(2)二回目の否認
①「しばらくして、ほかの男が彼を見て、『あなたも、彼らの仲間だ』と言った」(58節)。

②「しかしペテロは、『いや、違います。』と言った」(58節)。

(3)三回目の否認
①「それから一時間ほどたつと、また別の男が、『確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った」(59節)。ガリラヤ人→ことばのなまり。ガリラヤ地方は、反ローマ抵抗運動の盛んな地域。

②「しかしペテロは、『あなたの言うことは、私にはわかりません』と言った」(60節)。頂点、「それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。」(60節)。

[3]「主は」(61、62節) 
 ルカ特有の生き生きとした絵画的描写。
(1)「主は」(61節前半)
 ①「主が振り向いて」、7:9、44、9:55、10:23、14:25、23:28など。
ルカは主イエスが振り向かれる場面を一つ一つ印象深く繰り返し記します。

 ②「ペテロを見つめられた」。ルカはもう一箇所で、主イエスが見つめられている場面をしるしています20:17参照。
  「イエス御自身がそのまなざしで、この弟子の胸中に御自身の預言をよみがえらせる。・・・イエスは今もペテロを弟子と認めておられる。・・・イエスはペテロに目を注いで、悔い改めに駆り立て、同時にゆるしをお与えになった。」(A.シュラッター)。

(2)「ペテロは」(61節後半、62節)
 ①「ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言う』と言われた主のことばを思い出した」(61節)。

 ②「彼は、外に出て、激しく泣いた」
悔い改め、本心に帰るペテロ。

[4]結び
(1)私たちをも見つめられる主イエス
 次の三つの聖書箇所を味読されることを勧めます。
 Ⅰヨハネ2章1、2節。
 ヘブル7章25節
 ヨハネ14章26節、15章26節。

(2)私たちの応答は
 悔い改めの生涯。みことばと聖霊ご自身により改革され続ける教会。 悔い改め本心に帰った者の生活、ルカ15章17節以下に見る祝宴と労働の両方が特徴です。
今週の日々、新しい月の日々、遠く離れてではなくこのお方のまなざしに答えての一歩一歩を。