ルカの福音書味読・身読の手引き・その86

☆沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告。

「しかし,今は」(Ⅱ)
ルカの福音書22章47ー53節
[1]序
 
今朝、私たちは先週開いた秋の教会総会を終えた者として、主日礼拝を迎えています。1990年代後半首里福音教会の歩みにおける基本的宣教方針として、「多くの人々や教会により祈り支えられて来た感謝と共に、主のしもべとして、他の働きや地域(特に芦北祈りの家と伊江島)や教会のため祈り献げる群れとしての成長・成熟を目指す。そのためには首里福音教会全体として内的充実また私たち一人一人の霊的整えが求められ」ている事実を確認したのです。
このような確認をなした者として、1990年代はすでに私たちの現在の生き方の中に始まっていると痛感します。たとえば、この午後の教会学校教師会。今日の教会学校の一人一人が、1990年代後半の首里福音教会の青年会のあり方を左右すると言っても決して言い過ぎではない。中高生クラスの中から、1990年代の後半、クリスチャン・ホームを形成する者が起こされてもおかしくないのです。秋の教会総会を祝福を受けつつ終えた群れとして、今日の教会学校教師会また11月23日の一日祈祷会のうちに首里福音教会の1990年代後半の姿をありありと見て、小さなことを一つ一つ大切に心を込めて対処して行くのです。 

今朝、主日礼拝宣教の主題は、22章35ー38節の場合と同じく、「しかし、今は」で、そのパートⅡ・第二回目です。
53節の最後、「しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です」とルカが特別に記している主イエスのことばに焦点を合わせて、「今」と暗やみの力、悪の関係について確認し、悪に対し私たちの取るべき態度を教えられ、戦いに備えたいのです。
 
[2]ユダと主イエスの回りにいた者
(1)ユダと主イエス(47、48節)
 ルカのユダの描写には特徴があります。
①「ユダという者が、先頭に立っていた」(47節。

②「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか」(48節)。
 このようなユダの描写に、「彼の深められた罪責をはっきりさせた、接吻で人の子を裏切ることは、この上もなくひどい裏切りである」(A.シュラッター)ことが示されています。

(2)イエスの回りにいた者たちは(49ー51節)
①「事の成り行きを見て、『主よ。剣で撃ちましょうか』と言った。」(49節)。自分たちの判断に従い、当時の政治的メシア(武力でローマよりの解放を求める)運動に加わる者のように、武力による解決を提案し、主イエスの許可も受けず、言わば先走りして、「そのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした」(50節)のです。

②このような行為に対して、主イエスは、「やめなさい。それまで」(51節)と叱責し、「耳にさわって彼を直してやられた」(51節)のです。
 ユダとは違った形ですが、主イエスに対して主イエスの回りにいた者たちを通して鋭い挑戦がなされています。目に見える形、力をもっての解決を迫る(参照4章1ー12節)、十字架以外の道へいざなう挑戦です。
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[3]「しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」(52、53節) 
(1)祭司長、宮の守衛長、長老たちに対して。
「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。」(52節)。
ここで言われている「強盗」とは、武力をもって反ローマ運動を続ける熱心党を指しています。参照ヨハネ18章39、40節に見るバラバについて、「このバラバは強盗であった」と言われています。

(2)「あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった」(53節)。
その時には、祭司長、宮の守衛長、長老たちは、主イエスに直接敵対行為を取ることを許されてはいなかったのです。彼らも、いつでも自分の思うがままにことをなせるわけではなく、神の統治のもとにあるのです。

(3)「しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」(53節)。
わずかな時の流れの間に事態は変わっています。「今は」、主イエスに敵対する者たちが活動する時であり、しかもそのことも神のご計画に従うもので、いつまでも続くわけではないのです。

[4]結び
(1)暗やみの力
 ユダの行為、イスラエルの指導者の敵対行為などの背後に暗やみの力の現実を見ます。暗やみの力・悪の力を軽視したり、まして無視することなど許されません。

(2)暗やみの力・悪との戦い、いかに戦うか
 しかし暗やみの力・悪の力を大きく見すぎ、あきらめて戦いを放棄してもならないとを教えられます。問題はいかに戦うかです。聖書はこの点を私たちに教えているのです。主イエスの回りにいた弟子(ヨハネ18章10、11節によれば、ペテロ)の、「主よ。剣で撃ちましょうか」(49節)が的外れである事実が明らかにされています。
 ではどうしたらよいのでしょうか。主イエスの十字架と復活を経験し、聖霊ご自身の導きを受け歩みを重ねたペテロは、悪との戦いをいかに進めるべきか的確に示しています。 
 「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(Ⅰペテロ3章9節)。
パウロもまた、十字架を通し勝利なさった主イエスの道を明示しています。
 「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ロ−マ12章21節)。
 悪の力に対して戦う。
善を行うについては、ルカ16章10節、エペソ2章10節、Ⅰテモテ3章1ー7節などを参照。何よりも、あのペテロが諸教会に書き送っている、Ⅰペテロの手紙において繰り返し教えていることが大切な指針になります。手紙を通読なさることをお勧めします。

今朝は最後にⅠペテロ5章6ー11節を注意してお読みします。
「 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。
あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。 」