ルカの福音書味読・身読の手引き・その80

☆沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報k告

『準備をしに行きなさい』
ルカの福音書22章1ー13節

[1]序
 新しい週のはじめ、主日礼拝を守り歩みを始める幸いを感謝します。
先週8月30と31日は,東京キリスト教学園の第11回専任・兼任教員研修会(主題,「宣教と神学教育(学園)」)に参加。1泊2日の期間、同僚の方々と神学教育の課題を中心に交わりと研修の機会を与えられました。
レポートの責任のために準備を進める課程で、聖書が教えまた教会の過去の歴史に見る神学教育について教えられ考えさせられながら、私たちが直面している現在や将来の神学教育について示唆を与えられました。そうした中で首里福音教会における医療従事者の方々との交わりを通し医学教育について教えられているこ事実、また先日の伊江島中高生キャンプの経験が特別な助けとなり、レポートの責任を果たせました。教会全体の支えを受けつつ、東京キリスト教学園での奉仕を進めている恵みの事実を再確認したことです。
 
今朝の主日礼拝に引き続き、9月の定例教会役員会の予定です。教会の兄弟姉妹の祈りに支えられて、役員の各自また役員会全体が責任を果たして行くことができるように。
たとえば首里福音教会の今月の歩み、さらに9月から12月の歩みの準備をなし得るよう続けてお祈りください。 
第一主日の礼拝ですので、新しい週と共に新しい月を迎えている事実に心を向けざるを得ません。9月には12日の敬老礼拝、18日の第3回首里福音学生センター講演会、19日の第3回講壇交換と特別な計画が予定されており、台風十三号の去った沖縄で最後の準備を進めて行くわけです。
こうした中でルカの福音書の新しい章・22章に今朝は入ります。
22章と23章は、主イエスの受難・十字架の記事,24章は復活の記事です。9月、10月、11月そして12月。さらに1994年1月から3月までの期間、主イエスの十字架と復活の記事を正しく、深く、豊かに味わい得るよう主イエスの導きを待ち望み心を備えつつ、今朝の主日礼拝のために聖書の箇所を読みす。

[2]「さて・・・さて・・・」(1節ー7節)
(1)背景.
 「さて」と訳されている、小さなことばが1、3、7節に繰り返し(新改訳では訳されていませんが、9、10、13節にも)用いられています。いろいろな側面から、ちょうどブロックを一つ一つ積み重ねて行くように、1ー13節の記事をルカは描いています。
その中で、1節と7節に、「さて過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた」(1節)、「さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。」(7節)と見るように、過越の祭りと種なしの祝いが大切な背景になっています。
過越の祭り.出エジプト記12章1ー11節参照.

②種なしの祝い. レビ23章6ー8節参照.

(2)1節から6節の部分では.
 1節から6節の部分と7節から13節の箇所では、鮮やかに対象的な二つの準備が進む様を描き、前半では3つの動きが平行しています。
①祭司長と律法学者
「イエスを殺すために良い方法を捜していた。というのは、彼らは民衆を恐れていたからである」(2節)。

イスカリオテのユダ
「ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。彼らは喜んで、」ユダに金をやる約束をした。ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた」(4ー6節)。ヨハネ6章64節と70節、13章2節と27節など参照。

③サタン
「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった」(3節)。10章18節、13章16節、22章31節参照.

[3]「準備をしに行きなさい」(8ー13節)
1ー3節に見る、いわば暗闇の勢力の進展がすべてはないのです。ここにも、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1章5節)、恵みの事実を見ます。
(1)「イエスはこう言って」(8ー12節)
①恵みの備え。「イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた」(8節)。主イエスは、ペテロとヨハネを派遣し使命を実行させるため、前もって彼らに適切な指示を与え、十分準備をなしておられます。主イエスが私たちに使命を与え、役割を果たすよう導かれるとき、必要なすべての助けをも備えてくださる恵みの事実を認める洞察が大切、エペソ6章10節以下参照。

②弟子たちの注意深さ
弟子たちの主イエスへの問い、「どこに準備しましょう」(9節)とは、文字通りに訳すと、「どのように私どもが準備することをあなたご自身はお望みですか」。主イエスの御意志を知ることを大切にし、身をもってそれを実現しようとする弟子たちの態度、覚悟、注意深さがとても印象的です。
主イエスを信じるとは、ここに見る弟子たちの態度、覚悟、注意深さに習い主イエスに従うこと。

(2)「彼らが出かけて見ると」(13節)
どのような準備も準備だけでは不十分。「彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。そこで、彼らは過越の食事の用意をした。」(13節)とあります。
一歩踏み出し実際に出かけて、初めて「イエスの言われたとおりであった」と、主イエスの準備が十分である恵みの事実を経験させていただけるのです。実行するまでは、決して経験できない恵みがあります。従いつつ備えられて行くのです。実行しなければ進まない準備もあるのです。
主イエスの命じておられる準備をなさず飛び出す態度をつつしむべきです。しかし本当の確信(「イエスの言われたとおりであった」)は、実際に従う服従の生活と生涯の中でのみ与えられます。婚約と結婚のように。

(3)準備・用意
 この箇所では、「準備(用意)する」とのことばが繰り返されています(8、9、12、13節)。さらにルカの福音書全体を通して、この「準備(用意)する」ということばを以下のようにルカは興味深く用いています。
 1章17と76節(洗礼者ヨハネについて)。2章31節(主なる神の救いの備え)。3章4節(洗礼者ヨハネについて)。9章52節。12章20節(愚か者の用意)と47節(用意をしないしもべ)。17章8節(しもべの主人に対する役割)。23章56節、24章1節(女弟子たちの行為)。

[4]結び
(1)背景を知ることの大切さ
そのためにはどうしたらよいのか。

(2)ものごとの両側面を見る必要
その基盤、父、御子、御霊なる三位一体なる神様ご自身。一と三のいずれも。統一と多様。このような唯一の神が創造なさった万物にも、統一と多様の両側面があります。主なる神を礼拝し礼拝の生活を送ることこそ、ものごとの両側面を見る基盤です。

(3)主イエスのご意志に従い準備をする生活と生涯、洗礼者ヨハネや女弟子たちのように。そのために予定表が役立つ。心を定め生活と生涯において、主イエスの弟子として従うためです。