ルカの福音書味読・身読の手引き・その67

☆沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報k告

「祈りー主イエスの教えー」
ルカの福音書18:1−14節

[1]序 
今朝はペンテコステの礼拝です。聖霊ご自身により教会が誕生した最初の姿(使徒の働き2章)を通して、今日の教会のあり方を指し示されています。
 ルカの福音書18章1節から14節までを1節から8節と9節から14節の二つの部分に分け、主イエスが祈りについて教えておられる、たとえを味わいます。

[2]いつでも祈るべき(1―8節)
(1)たとえの目的、「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために」(1節)。17章22節以下に見た,「人の子」の日(主イエスの再臨)の望みに生かされる弟子たちを整え、備え励ますため。

(2)たとえの第一の中心。「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」と主なる神を比較して、「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあでしょうか」(7節)、「神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます」(8節)と、主なる神がどのようなお方であるか明らかにしています。真の審判者としての神の公平なさばき。

(3)たとえの第二の中心。やもめの姿を通して、主イエスの弟子がいつでも祈り続けるべきかを教えています(1節)、祈りに対する励まし。

[3]パリサイと取税人のたとえ(9−14節)
(1)たとえは、だれに対して語られたのか、「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して」(9節)。

(2)パリサイ人の祈り(11,12節)
 ①自任,12節.

 ②見下し,11節.

(3)取税人の祈り(13節)
 ①自覚、神の御前に立ち得ない。何の誇るところもない罪人として、罪の赦しの必要を持つ者としての自覚。

 ②神のあわれみを求める信仰。自分の義ではなく、主なる神の義に寄り頼む信仰。

(4)たとえのポイント
 「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」(14節)。

[4]結び 
11章1節には。主イエスの弟子たちが祈りについて教えを求めている姿。
彼らに、「主の祈り」が示されました。祈りの内容を中心としての教えです。
ここでは、主イエスご自身の方から弟子たちに祈りについて教えておられます。持つべき自覚をもって失望せずに祈るべきことを。