挫折に会う恵み、挫折を越える恵み

☆今、「主よ、汝の十字架をわれ恥ずまじ:ドストエフスキーの神学的一考察―『悪霊』に於ける人神論と神人論―」『宮村武夫著作6』刊行準備の最終段階に入っています。

 この卒論をめぐり挫折に会う恵み、挫折を越える恵みを経験しました。以下は、その一部を記したもの。「卒論ドストエフスキ−、二つの挫折を越えて」

[1]序
(1)2004年4月から、日本センド派遣会の総主事としての働きを開始しました。
 国籍をはじめ多様な背景を持つ、500人以上の宣教師により構成されているセンド国際教団の20箇国に及ぶ世界宣教の現場に、日本からも宣教師を派遣することを目指して日本センド派遣会は一歩を踏み出しました。
総主事の役割の一つは、様々な地区への宣教の旅です。2007年11月24日(土)−12月3日(月)には、関西地区宣教の旅へ。

(2)京都聖書教会、大和昌平牧師
 11月24日(土)、11月25日(日)は、大和昌平牧師が25年間牧会なさった京都聖書教会を訪問しました。
大和牧師は、東京基督神学校時代、私の聖書解釈学の授業を受講してくださり、実に見事なノ−トを取られており、私はそれをコピ−させてもらった思い出がありました。確かに様々な資料やレジメを用意はしていても授業のために完全原稿を私は準備していなかったため、綿密に整理されたノートは、翌年以降大きな助けとなりました。

 1月25日の主日は、まず教会学校で当時すでに私が実践していた童謡説教を実行、子供たちと気持ちがぴったと一つになったのです。
また主日礼拝で宣教、俗な言い方で言えば、あの授業での親しい交わりに裏づけられ思わず気合が入らざるを得ず、実に恵みの主日の一日でした。 
 
(3)集会で、ドストエフスキ−について久しぶりに話す機会
11月26日から29日、二つの教会と一つの聖書学院で宣教と交わりを持った後、11月30日(金)に京都聖書教会を再度訪問、午後のユニークな集いに参加したのです。
 主日礼拝で聖書朗読を専門に奉仕している数名の方々が、大和牧師の指導でドストエフスキ−について中村健之助先生の著書、『ドストエスキーのおもしろさーことば・作品・生涯』岩波ジュニア新書を手引きに学んでいるとの報告を、1月25日の主日礼拝の後聞いたとき、私の心は微妙に動き、聞き流すことが出来なかったのです。
 そこで、京都聖書教会を再訪問、件の家庭集会出席して、1962年に提出した日本クリスチャン・カレッジの卒論から、『悪霊』に見る人神論と神人論について話す段取りになったのです。  
 ドストエフスキ−について直接話すなど40数年ぶりのことでした。
 
 家庭集会後、会場を提供なさっている入江家族と夕食を共に。
88歳になる当主の入江正信氏は高名な弁護士、ご夫人の長年わたるキリスト信仰を認めながら、ご自身としては、その時点では、キリスト信仰を告白なさっておられない方でした。氏の幼き日の思い出話をはじめ、不思議なキリストにある自由な導きの中で話がいやが上にも盛り上がり、私が導くことを許された最後の祈りにおいて頂点に達した心満ちるひと時、実に感謝でした。

(4)この後、一つの嬉しい出来事が続きました
 1962年に卒論提出後も、ドストエフスキ−関係の書物手放すことができず、何回かの引越しを繰り返しても手元に保持し続けていたのです。
 あの11月30日の集会が契機となって、ドストエフスキ−関係の書物を大和先生に引き取って頂くことになりました。

 2006年4月、思いもよらない経過で、20年間それなりに心血を注いだ首里福音教会を離れることになりました。その過程で、教会会堂三階の学生センタ−に蔵書を置くことは許されず、将来沖縄聖書神学校に寄贈を考えていた半生をかけて集めていた蔵書は、ある期日まで移動せよとの通告で、一時は町のごみ処理所への処理を覚悟したほどでした。
 
 しかしそのような事態の中で、学生センターで私の授業をとっていたほんの数名に過ぎない沖縄聖書神学校の神学生方や卒業生が臨時の保管場所を犠牲を覚悟で用意してくれたり、かなりの冊数の書籍の集中的な運搬を買って出て危機を脱したのです。
 さらに臨時に保管していた書籍は、その後幾つかの神学校図書館や主にある同志の方々に希望と必要に応じ贈呈送付していたのです。その作業の最中に、あの11月30日の集会が契機で実現したドストエフスキ−関係の書物の大和家への嫁入りは、私にとり特別な喜びでした。

[2]第一の挫折を越えて
(1)出発点、却下
上記の経過で大和家に嫁入りした書物を用いて、1962年に提出した日本クリスチャン・カレッジの卒論、「ドストエフスキ−の神学的一考察−『悪霊』に於ける人神論と神人論−」は、その出発点、いや誕生以前から挫折に直面したのです。
と言うのは、卒業論文の題を日本クリスチャン・カッレジの教授会に提示したところ、却下されたのです。
 その理由は、至極もっともなものでした。

第一は、ロシア語やロシア文学の知識のない中で、この主題の卒業論文は適当でない。
第二は、聖書に直接関わる主題を選択するようにとの勧めを受けました。

 そこで旧約聖書にかかわる卒業論文の主題を考え始めようとしていたところ、挫折を乗り越える事態が生じたのです。
渡邊公平先生は、神戸改革派神学校での集中講義のため、件の教授会に欠席しておられました。先生が神戸からお帰りになった後、事態は一転して、最初に提出した題で論文を執筆出来ることになったのです。なぜそのような逆転が可能になったのか知る由もありません。

 私も後年同じ教授会に属するようになって、私の論文の出発点に起こった逆転は、普通ではあり得ないと理解するようなりました。
いずれにしても事実として、渡邊公平に先生の存在なくして、私の卒業論文は、誕生さえあり得なかったのです。

(2)論文執筆の基盤と実際的経緯
①論文執筆の基盤
卒業論文をめぐる一事だけではありません。私なりの小なりとは言え生涯を貫く神学的歩みは、渡邊先生との出会いに基盤を置いているのは明白な事実であり、今も心より感謝しています。
2005年11月18日渡邊公平先生御召天後、東京基督教大学図書館の求めに応じて以下の拙文を、手短に心を込めて書き記しました。

「渡邊先生からの学恩」
 1961年4月、渡邊公平先生は、神戸改革派神学校から日本クリスチャンカレッジへご転任。私どものクラスはそのとき4年生になったところで、1年間渡邊公平先生から組織神学と『神学と哲学』の授業を受ける恵みに預かりました。
 最初の一年、先生はご家族を神戸に残され単身赴任、学生寮の一室で生活なさいました。
そのためしばしば先生を私は訪問、幼稚なしかしその当時の自分なりには真剣な課題をめぐり質問をなし、先生からも真剣なお答を受け、こうして生涯を貫く神学的基盤が据えられました。
卒業後1年間は、週に一度埼玉の寄居から東京杉並の浜田山まで通い、ベルクワーのGeneral Revelationの通読を中心にご指導を受けたのです。

 1963年から1967年の留学時代、先生が書き送ってくださった手紙の内7通が手元にあります。今、ここで一通一通を味読し、生涯の恩師を偲びます。また説教と講義、何よりも私の目前にいるお一人お一人との対話において、聖霊ご自身の導きによるしなやかな喜びを注ぎ続け、渡邊先生からの学恩に報いたい、そう思い定めているのです。」
 
 渡邊先生を学生寮の一室に訪問し導きを頂いた中で、特に目から鱗が落ちる思いの記憶があります。それは、聖書をめぐる基本的理解についてでした。
 高校生のとき、キリスト信仰に導かれて以来、私は、聖書は神の言葉であると確信して歩んでいました。そうであればあるほど日本クリスチャン・カレッジで学年が進むにつれて、一つの葛藤が生じたのです。
 
 神のことばである聖書は真理の書であり、すべてのことについて導きと回答を与えているはずだとの思いを持ちつつ、4年生になるまでには次第に聖書から直接回答を見出せない類の事態や問いに直面するようになって来ていたのです。
 聖書は神のことばであるとの確信とすべてのことについて聖書から回答を得ていない現実が私の中で葛藤となり生活全体にも影響を与え圧迫する程でした。
 子犬が自分の尻尾を咥えようとしてぐるぐる回っているような私の課題にも、渡邊先生は、正面から付き合ってくださり、
ついに「真理は一部であっても真理である」との指摘をして下さったのです。
聖書に生ける神のすべての真理が啓示されているわけでない。
しかし聖書に啓示されている神の全真理の一部は、なお真理である。
聖書を与えられているからと言って、神の真理のすべてを与えられているわけではない。
神の真理のすべてを与えられているわけでないけれども、神の全真理の一部として真理である聖書は、まさに、
「あなたのみことばは、私の足のともしび、
 私の道の光です。」(詩篇119篇105節)。
 こうしてドストエスキーの神学的考察、聖書でドストエスキーを読む基盤がそれなりに据えられたのです。

☆間奏曲 この時授与された導きは、50年後の今、今後執筆したいと願っている「慎みの神学」(Ⅱテモテ1章7節)の基盤です。

②基盤に基づく論文執筆の経緯
 提示した主題での論文執筆が許可されて、いよいよ実際の準備を始めました。
それまでドストエスキーの作品を幾つか読んでいた中で、なぜ『悪霊』を卒論の対象として選んだのか、残念ながら、今では記憶も記録もありません。
 ただ言えることは、その作品選択は間違っていなかったと今判断している事実です。

 1961年4月以降、『悪霊』そのものを読み返したり、参考文献に提示した参考書に目を通しながら、参考になる事柄をカードに記録したり自分なりの考えをメモする地味な作業を継続したのです。

一つの節目は、夏休みの期間です。
7月と8月、埼玉県寄居町の一部屋で、論文執筆のための作業に集中できました。
 日本クリスチャン・カレッジ1年生の秋から、アメリカからのジーンズ、カナダからのプライス両婦人宣教師の開拓伝道を手伝っていました。やがてカレッジ卒業後に小さな寄居キリスト教会の牧師にとの招きに応じたのです。両婦人宣教師は、夏の期間寄居での生活を経験しながら論文に集中できるように配慮してくださいました。
そんなこともあり、卒論提出の期限前に余裕をもって卒業論文を書き上げることができたのです。

(3)渡邉公平先生の拙論に対する指摘
 書き上げた拙論に対して渡邊先生が指摘くださった二つの点を、今も記憶しています。
一つは、第二章「ドストエフスキ−の生涯」についての記述が長すぎる、必要不可欠な点だけに絞り集中すべきとの指摘です。

 第二の指摘・勧めは、第五章人神思想−その根拠と破綻―と第六章神人思想―キリストの事実の故に―に集中、さらに掘り下げ論を展開すべきとの励ましでした。
以上の指摘は、論文執筆の過程のものでなく、提出後のものであって、ご指導に従い書き直すことはありませんでした。

 しかし今思い返してみると、渡邊先生が指摘してくださった二つの点は、私の存在や思考方法と深いところに触れてくる課題であると認識します。

たとえば日本クリスチャン・カッレジ2年次教育学レポートで、『教育者としての内村鑑三』(宮村武夫著作2『愛の業としての説教』、166−201頁)において、[2]内村鑑三の受けた教育(166−182頁)と[3]内村鑑三の教育観(183−200頁)において、生活・生涯と思想の不可分な関係についての理解は、すでにレポートの構造や記述方法において明らかです。

 さらにこの点については、1969年以来担当するようになった、東京キリスト教大学、東京キリスト神学校と沖縄聖書神学校における神学教育の中心であった、「聖書解釈」の授業で強調して来た核心と重なります。
「人は生きているようにしか聖書を解釈出来ないし、聖書を解釈しているようにしか生きることができない」(宮村武夫著作5『神から人へ・人から神へ』「聖書・神学」考、295,296頁)。

 第二の指摘・勧め、人神思想と神人思想の葛藤の掘り下げは、及ばずながら、説教者としての歩みの根底にある課題であり続けたと自覚しています。
その営みの中で、「存在の喜び」が主旋律です。

(4)自費出版と母典子
 その経過のすべてを記憶してはいないのです。
しかし事実として、雨宮巍兄のパスカルについての卒業論文と私のドストエフスキーのものを一緒にして、『十字架と葦』と題名をつけたタイプ印刷の小冊子を自費出版したのです。
これは、母典子の援助で可能となりました。

 母典子は、深川生まれ深川育ちの父泰二とは対称的に、渋谷代官山の生まれの山の手育ちでした。
小学校時代、岩見重太郎など豪傑を主人公とする貸し本屋の講談本に夢中になっていた私が中学生となると、パールバックの『大地』を初めとする世界へ徐々に導いてくれたのです。

 高校生時代、キリスト信仰へ導かれた私に母は深い理解を示し、聖書の話を良く聞いてくれました(宮村武夫著作5『神から人へ・人から神へ』「聖書・神学」考、344頁)。
 しかし父泰二とは違い、1970年10月25日、洗礼を受けることも劇的な信仰告白もなく死去しました。
 
 そんな母が、積極的に援助してくれた卒論の自費出版でした。
キリスト信仰の歩みを続ける私を、母はあらゆる面でサポートしてくれましたが、卒論出版と共に、特別に忘れられない感謝は、私たちの結婚をめぐっての母典子の判断と援助です。
 君代と私は、1962年3月、私が日本クリスチャン・カッレジを卒業したその夜、万代恒雄先生の司式で婚約式をしました。
その後、1963年8月、私はアメリカ・ニューイングランドに留学。
1965年3月、君代が日本クリスチャン・カッレジを卒業するに当たって、母は、夫婦が同じ留学生活を経験することは、夫婦の生涯にとって決定的に重要と判断、君代の渡米を援助、1965年4月12日、ボストン近郊の教会での結婚式実現の道を開いてくれたのです。

[3]第二の挫折を越えて
 卒論の「結び」の最後の部分で、「今後、作品を直接読み続けていく事によって、彼の指差す御方を求めて行きたい」と記しました。あの時、特に念頭にあったのは、『作家の日記』であった事実を今も記憶しています。
しかし1962年3月に日本クリスチャン・カッレジを卒業後、寄居キリスト教会牧師として生活を始めてから翌年8月に留学するまでの期間、さらに1967年9月まで4年間の留学中も、ドストエフスキーを直接読み進めることはありませんでした。
卒業論文をめぐる第二の挫折です。
 しかしその挫折も乗り越えることが許されたのです。

(1)寄居時代
(一)小さな牧師館の狭い部屋での読書会
1967年10月1日、4年間の留学中待ち続けてくれた寄居キリスト福音教会に、私は戻ることが出来ました。1965年4月12日に結婚式をあげた妻君代、帰国の年の8月27日に誕生したばかりの長男忍望と共に。迎える側も、迎えられる側も、ひたすら喜びに満たされた恵みの時でした。

そうした雰囲気の中で、一つのことが始まったのです。
当時寄居高校定時制の教師であった若き文芸評論家・松本さん、同僚の藤田さんと私を中心に、小さな牧師館の狭い部屋でこじんまりとした読書会を始めたのです。
藤田さんが、自分はマルキストと自己紹介した声が耳に、いや心に今も残ります。

 その時より五年前に書いた、日本クリスチャン・カレッジでの私の卒業論文、『ドストエスキーの神学的一考察─『悪霊』に於ける人神論と神人論─』、その自費出版した1冊を、カナダとアメリカから寄居に来られていた二人の婦人宣教師・ジーンズ先生とプライス先生がが松本さんに手渡しておられたことが、読書会発足の種になったと記憶しています。
読書会はめっぽう楽しく、定時制で私が英語を教えられないかその可能性を求めて、お二人は努力を払ってくださいました。しかし私が卒業した日本クリスチャン・カレッジが文部認可の大学でないため、県庁の許可が下りず、没。

(二)「アンヨをもって、テテもって」
1970年1月25日、寄居キリスト福音教会発行の『月報』に、以下のドストエスキーがらみの文章を載せました。

「二歳半になる長男忍望が教会学校の幼稚科出席するようになってから、種々興味深い事実を観察しています。
たとえば、暗誦聖句についてです。
最初に習った暗誦聖句は、新約聖書ガラテヤ5章13節の「愛をもって互いに仕えなさい」でした。
暗誦聖句はと聞くと、「アンヨをもって、テテもって」と忍望は答えるのです。
初めは、何のことか全く理解できませんでした。アンヨではなく、愛と言っているとばかり思い込んでいたので、どうして、テテ(手)が出てくるのか分からなかったのです。
しかし、やがて忍望は愛と言っているのではなく、アンヨ(足)と言っているのがはっきりすると、すべてが理解できるようになりました。愛という言葉は、二歳半の忍望にとって、全く無縁なものです。
ですから、愛という言葉を聞いた時、その発音に比較的近い、アンヨ(足)と誤解したのは、至極自然なことと言えるでしょう。アンヨと言えば、どうしても、テテが出てくるわけです。それで、暗誦聖句と聞かれれば、「アンヨをもって、テテもって」と答える理由が分かりました。分かってみれば、
何でもないことです。
ところで、「愛をもって互いに仕えなさい」との励ましは、結局のところ、「アンヨをもって、テテもって互いに仕えなさい」と理解され、実行されねばならないのではないでしょうか。
こうしたことを考えながら、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を思い出しました。あの作品の中で、ゾシマ長老は、アリューシャが信仰と愛とによって、この醜悪な世界を浄化し、美化していこうと目指す時、「然るに実行の愛に到っては、何のことはない労働と忍耐じゃ」と語っています。
十字架・キリストのからだにおける卑下により神の愛を示された私たちは、労働と忍耐を通し、自分の生かされた場所で実行の愛を具体化して行く道を期待されています。神の愛を賛美しながら、現実の人間生活から逃避することなく、身に受けた神の愛の故に、苦難と悲惨に満ちた現実にしっかりと留まり、与えられた生を他者との人格的交わりを通して生き抜く。これが、人間・私、キリスト者に求められている生き方です。
今年、私たちの信仰が、愛という抽象的な言葉に留まるだけでなく、手や足という具体化、現実化されていくこと願わざるを得ません。
「愛をもって互いに仕えなさい」と「アンヨをもって、テテもって互いに仕えなさい」とは、決して別のことではないようです。」__

(2)2009年12月18日脳梗塞発症・入院を契機に
2009年12月18日(金)、脳梗塞発症のため沖縄県那覇市立病院に入院、明けて1月13日(水)、リハビリに集中するため大浜第一病院へ転院後100日間に及ぶ入院生活。
脳梗塞発症・入院の経験は、1963年から1967年若き日のアメリカ・ニュ−イングランドにおける留学生活の日々に匹敵する、人間・私はなにかを悟る深い訓練のとき、しかも短期集中の楽しくて、楽しくて仕方がない毎日でした。
その入院中に、埼玉の松本鶴雄先生に、宮村武夫著作1『愛の業としての説教』を送ったのです。2009年11月20日に発行されたばかりでした。

1967年の埼玉寄居での出会い以来、松本鶴雄先生とは、それまでも、ときに応じて連絡を取り合っておりました。松本先生は、何回も、著作を恵送下さっていました。

私が著書を送った直後、松本先生から病院の個室で活用していた私の携帯に電話がありました。時空を越えて対話はいやが上にも盛り上がりました。
その電話が契機となり結果として、松本鶴雄先生を中心に発行され続けてきた、文芸雑誌『修羅』の同人に、70歳を越えた身で加えて頂くことになりました。
第二の挫折の小さな乗り越えが、リハビリの病室から始まったのです。
参照
☆『修羅』61号、2010年7月掲載
「アンヨをもって、テテもって」

☆『修羅』62号、2011年1月掲載
「ペテロ・ネメシュギ神父の手紙」

☆『修羅』64号、2012年12月掲載
「丸太の笑いから喜びカタツムリの歩みへ」