ルカの福音書身読の手引き・その40
☆沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告
「そこに見えたのはイエスだけであった」
ルカの福音書9章28〜36節
[1]序
今朝は9月の第一の主日礼拝。この月も以下の予定でルカの福音書を読み進めて行きます。
9月 6日(日)ルカ9:28〜36「そこに見えたのはイエスだけであった」
9月13日(日) ルカ9:37〜43 「神のご威光に驚嘆」
9月27日(日) ルカ9:44〜50 「理解できない弟子たち」
ゆっくりした足取りです。一歩一歩前進させて頂きます。
9月20日の主日礼拝は、九州・沖縄地区第一回の講壇交換で、首里福音教会では石川福音教会の重元先生が宣教に当たってくださる予定です。
今朝味わうルカ9:28〜36の箇所を、マタイ17:1〜8やマルコ9:2〜8と比較すると、ルカの記事の特徴が浮かび上がってきます。
[2]「御顔の様子が変わり」(28−32節)−主イエスの栄光の現れ−
(1)主イエスの祈り(28、29節)
28〜36節の箇所でも,主イエスご自身の祈りの重要さを強調しています。
「祈るために山に登られた」(28節)、「祈っておられると」(29節)、9章18節参照。主イエスの祈りとの変容が堅く結ばれ、出来事の重要性を示しています。
(2)「御顔の様子が変わり」(29節)
30節以下に登場するモ−セは律法を代表、エリヤは預言を代表しています。この二人の姿を通して、旧約聖書全体が主イエスを指し示している事実を現しています。
さらにモ−セも神の栄光を自分の顔の様子を通してそれなりに現していること(出エジプト記34章29節以下、Ⅱコリント3章13節以下参照)と比較するとき、「消えうせる」(Ⅱコリント3章13節)モーセの輝きに対して、主イエスの無比の栄光が明らかになります。
ここでの出来事は、主イエスの復活後の身体(24章36節以下、ヨハネ20、21章参照)との関係をあらかじめ示しています
何よりも注意すべきことは、主イエスの栄光が十字架の事実と決して切り離されていない点です。
31節後半に見るモ−セやエリヤが指し示している「最期」(31節)とは、主イエスの十字架の死以外のなにものでもありません。
また28節の「これらの教え」とは、27節までの直前の箇所に見る、主イエスの十字架と主イエスの弟子の十字架についての教えであることは明らかです。
十字架の事実が指し示される中で、主イエスの栄光は輝くのです。
[3]「そこに見えたのはイエスだけであった」(33〜36節)−主イエスの栄光への応答−
(1)何を言うべきか知らないペテロ(33節)
主イエスの栄光が輝き渡るとき、主イエスの弟子たちはどのように応答すべきか。
「ペテロは何を言うべきか知らなかった」(33節)とルカが説明。
33節前半のペテロの申し出は、的外れの応答を描いています。
(2)「彼の言うことを聞きなさい」(35節)
では主イエスの弟子たちがなすべき応答はどのようなものであるべきなのでしょうか.35節に記されている、天よりの声が明らかにしています。
同じことを聖書全体を通して明示しています。主なる神様が人に求めておられるのは、単なる宗教儀式、さらには宗教くささなどではない。
神のことばに聞き従うことであり、主イエスの声に聴従することです。
「主は主の御声に聞き従うことほどに、
全焼のいけにえや、その他のいけにえを
喜ばれるだろうか。
見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15章22節)
(3)「そこに見たのはイエスだけであった」(36節)
「イエスだけ」という一見狭く見える道こそ、今朝共に味わった今週の聖句・コロサイ3章11節が明示する、真の豊かさの道なのです
「そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」
[4]結び
(1)十字架と栄光.
(2)「そこに見えたのはイエスだけであった」.