ルカの福音書身読の手引き・その33

☆沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告。

「わたしの母、わたしの兄弟たちとは
          −神のことばを聞いて行なう人たち−」
                  ルカの福音書8章19−21節

[1]序
 ルカの福音書を読み進めながら私たちが繰り返し確認してきたことの一つは、前後関係・文脈に注意する必要です.今朝味わう8章19−21節についてもその事実を、やはり強調したいのです。
 
しかしもう一つの営みを,今朝は特別に取り上げたいのです。それは他の福音書との比較です。この箇所で記されている出来事を他の福音書ではどのように描いているか(マタイ12:46−50,マルコ3:31−35)を比べて見るのです。それぞれの福音書の記事の特徴を確かめたり、他の福音書の記事を参照にしながら、一つの福音書だけを見ているときよりさらに豊かに内容を味わう道が開かれます.

[2]「近寄れなかった」(19節)
(1)主イエスと主イエスの母と兄弟たちの間にある距離が生じていることを暗示。
マルコの福音書3章20節以下には、この点をよりはっきり描いています。

(2)マルコの福音書では家族の大切なこと、またいずれの家族も自らの力を遥かに越えた力の圧迫の下に苦しみ、本来の姿からずれた状態にある現実を繰り返し描いています。
1:29−31、3:13−19、5:1−20、5:21−43、6:14−29、7:1−23、7:24−30、9:14−29、10:1−12、10:28−31など参照。
各記事を深く思い巡らす必要があります。

いずれの家族も解き放たれ、支えられ本来あるべき姿に立ち返る必要があるのです。
しかも肉の家族関係だけでなく、さらに豊かな家族・主イエスにあって現実となっている神の家族の存在を指し示しています。

[3]「神のことばを聞いて行なう人たち」(21節)
(1)「天におられる父のみこころを行なう者はだれでも」(マタイ12:50)、
「神のみこころを行なう人はだれでも」(マルコ3:35)。

(2)神のみこころは、神のことばを通して明らかにされていることを教えられます。
私たちが聖書を読むのは、神のみこころを知り、まず自分自身が従い、それを伝えるためなのです。

(3)神のことばの聞き方については、先週学んだことを参照。

[4]結び
(1)現実の家族関係の限界、破れ。その根底にあるものは、恵みの神から離れ、血のみを重視するゆがみ、ヨハネ1章12、13節。

(2)神のことばによる新しい家族関係の形成、Ⅰペテロ1章22−25節,エペソ4−6章参照。
教会は神の家族、
家庭は神の教会。