『 主よ、汝の十字架をわれ恥ずまじ』

☆1962年、私の小さな日本クリスチャン・カッレジの卒業論文を中心に、次回宮村武夫著作の最終準備が進められています。お祈り頂ければ嬉しいです。

『 主よ、汝の十字架をわれ恥ずまじ』
 ドストエフスキーの神学的一考察 ——「悪霊」に於ける人神論と神人論 ——
 
 
序 文 
学生生活の一応の思想的総括として、ドストエフスキーを取り上げたのには、自分なりの理由がある。二年生の頃から、自分に問題として感じられた事柄は、常にドストエフスキーのテーマから出発し、それとの関連において思索されて来た事実を認めざるを得ない。この機会に、彼を自分なりに考察する必要を痛感する。
 
特に、(1)牧会学との関係、(2)虚無の克服、(3)差別性と統一性を中心とする神学的考察の三点が、
彼を考察する場合、自分の中心的な関心となった。

(1)牧会学との結び付き 
一年の後期から、埼玉県の寄居町にある小さな群れと接するようになった事は、意味深い出来事で
あった。この群れに奉仕する事を通して、現実に生活する人間と神学が根底に於いて、最も密接な関係を有するものであるとの確信を持つに至った。矛盾に満ちた現実にあって生活する人間の問題を無視したり、軽視したりする、すなわち、広義に牧会学を課題としない神学は、純粋な神学とは思われない。
同時に、神学的考察のなされない生活は人間の生活とは言えない。人は神学的考察を開始する時、すなわち絶対者の前に置かれた被造物としての自己を自覚する時、初めて人となる。他の動物と同様に、単に生存する状態から、人として自覚的に生きる段階に進むのである。この神学の受肉、すなわち、現実を肉に含んだ神学、また神学的考察のなされ続ける生活、これをドストエフスキーは、歴史的、域的制限を受けながら文学作品という特殊な形体を通して具体化し続けたのではなかろうか。この意味で、牧会学を重要視する時、ドストエフスキーの意義は否定することは出来ない。名著『牧会学』の著者トゥルナイゼンが、彼の神学的遍歴の重要な時期に(バルトのロマ書発刊後三年)、ドストエフスキーについて論じている事は、この確信を一層強めさせるものである。
 
(2)虚無の克服 
我々は牧会者である前に、またそれを目標とする前に、自己が一個の人間である事実を明確に自覚する必要がある。すなわち、牧会者もまた、単独者としてこの人生を生きよとの課題を与えられているのである。そして我々が生きんとする現実世界は、「たとい不愉快であろうとも、無条件に承認して直面しなければならないところの過酷な事実に満ちている 。」のである。この過酷な事実が、我々の信仰そのものにいかなる関係があるか。過酷な事実の存在は、唯一の絶対的主権者なる神を信ずる信仰を持つ事を不可能にするのではなかろうか? この疑問は根底的なものである故に、決して無視出来ない。人生が過酷な事実に満ちている事、すなわち人間の歴史、また自然の歴史の中に認められる苦難、矛盾、さらに無意味性は、我々の有限な、不充分な認識力がしからしめるところのものなのであろうか? 我々の目に映ずる矛盾、不合理、不幸、悪と思われるものの存在は、宇宙を一時に、全体的に見る事の出来ない我々の認識力の不完全性の故なのであろうか? 
認識の問題であるにせよ、実体の問題であるにせよ、とにかくこの現実の中に生活する我々に切迫してくる苦難、矛盾、無意味性が我々の信仰 ―― 唯一なる神の真実を信頼する信仰 ―― にとって、最も根底的な克服の課題となる事は論を持たぬところである。
 さらに、この課題を近代人ドストエフスキーを通して考察するにあたって、
 「率直に聖書の前提から出発し得ず、先ず人間の内面的自覚を介してそこに到らなければならぬ近代人の必然」と言われている近代人の特長を考慮に入れねばならない。終生、神の存在を問題とし、罪悪の問題を深く探求し続けたドストエフスキーはかかる近代人の代表者なのである。彼は、人間の内面的自覚の生みだす虚無を問題としつつ、常に聖書の前提、唯一なる神に切迫していったのである。この様に解する時、次の言葉の重要性を知り得るのである。
 「ニヒリズムを単に合理主義の極限概念、その崩壊と解することは歴史的にはともかく原理的には甚だ不充分な見解であると言わなければならぬ。従ってニヒリズムを徹底的に問題とする場合、罪悪の問題を十分真剣に対決し、それを解決することは何よりも大切であるといわなければならない。ドストエフスキーの『罪と罰』及びその他の大作は、パスカル及びキルケゴールの業績と共に、この問題に関する。」
 ニヒリズムを克服する信仰は常に罪悪の問題を考える事を要求され続けるのである。信仰が現実 ― 過酷な事実 ― を無視しないと主張するなら、その信仰は、虚無思想克服を内に含んでいるものでなければならぬ。現実を直視し、これを乗り越えようとして挫折した虚無思想は、矛盾に満ちた世界に生きる我々信仰者にとって、主張されるべきものではないが、常に克服されるべき課題として、直面せねばならのものである。信仰(肯定)が主張される時、必然的に非道なる外界と、自己の悪な
人間性が信仰を否定するものとして問題となってくる。
 さらに、信仰が主張された後に、虚無思想が必然的課題となるばかりでなく、真の救いは、一面において虚無思想を前提とする。何故なら超越的な無限者と有限なる自己との出会いにおいてのみ、真の救いは可能となるのであり、この出会いにおいては、超越的な無限者の前に、己が有限性と罪意識が初めて徹底的に自覚されるのである。キリスト教の宣教は、超越的絶対者による救いの提示であると同時に、自己に対する、有限なるもの一切に対する終局的虚無の宣言である。この虚無の試練を通過した後、本来無意味なるものが、それにもかかわらず、超越者との関連において意味を与えられている事を自覚せしめられるのである。
以上の如き信仰と虚無の克服をドストエフスキー、彼の生涯と作品(『悪霊』に限るが)を通して考察する。
 
(3)差別性と統一性を中心とする神学的考察 
渡邉公平教授に短期間であったが、三位一体なる神観から必然的に生ずる「統一性」と「差別性」の原理を土台とする神学体系を学び得た特権を心から感謝する。我々にとって、少なくとも自分にとって、人間は二つの面を持つものとしてしか理解出来ない。「統一性」と「差別性」の用語を学ぶ以前、自分は、人間の現実(存在としての人間―差別性―)と真実(神との人倫的関係を中心とした人間―統一性―)の区別と関係において、人間を考察してきた。
 単なる存在者としてのみ人間を観察し、そこから引き出される論理を徹底していくならば、神なしとの人神的思想に落入っていく必然性を認める。しかしながら我々に与えられている福音は、現実の苦難と、悲惨を直視する時、必然的に生じてくるこの虚無的人間観をも中に含み得るものであり、その呻きと終局的には自己を神とする無神論を克服し得るものであると確信しつつ、この論を進めていく。
 ドストエフスキーを、自分は神学的に考察する以外、いかに考察してよいのか他の方法を知らない。
 [序文 注]
 (1)L・ボエトナー『カルヴィン主義予定論』田中剛二訳、長崎書店、一九三七年、九三頁。
 (2)森有正『近代精神とキリスト教』、河出書房、一九四九年、二七頁。
(3)森有正『近代精神とキリスト教』、三〇五頁。