「約束・ことば」『礼拝の生活』再考その127

1973年4月29日
『礼拝の生活』127号
 
(巻頭言)「約束」
 今、週に一度、もみの木幼児園でアブラハムの記事を子供たちに話しています。子供たちによく理解してもらおうと努力しています。

 こうした試みを続けている現在、アブラハムの記事全体を流れる基本線を、もう一度強く教えられています。それは、神はご自身がなされた約束を必ず守られると一事です。
 アブラハムを召し、アブラハムに語り給う主なる神は、ご自身の約束が真実であることを示すことによって、ご自身の真実を明らかになさっていきます。ことばの真実さ。そして、アブラハムは、この約束のことばに信頼し応答していくことによって、彼自身の信頼・信仰を告白なするのです。アブラハムもまた、ことばの真実さに生きるように導かれます。
 
 このように、アブラハムの記事を通して、信仰と約束の深い関係が明らかにされています。私たちが、聖書は誤りなき神のことばであり、信仰と生活の唯一の基範であると信じるのは、この信仰と約束の関係からみても、実に大切なことです。私たちの信仰生活における目の据えどころを、それぞれ再吟味したいものです。
 
 しかし約束というとき、もう一つの面についても深く反省させられます。それは私たちのことば、私たちの約束に対する責任です。神の約束の真実に信仰の基盤を置く私たちは、人のことばの頼りなさ、そうです、じぶんのことばの頼りなさをよく知っています。
しかも私たちは、真実な神に頼るがゆえに、私たちのことば、約束にも、恐れをもって真実でなければならないわけです。
 この点で、いかに欠けているか、今自分自身のこととして、反省させられます。

あれから40年間、日本新約教団から日本福音キリスト教会連合への歩みを通じて、
約束、ことば、歴史の記述において、
「あることをないことにしない。
 ないことをあることにしない」、神学的うそとの戦いが課題でした。

 特に首里福音教会で、次の牧師を招いた後の修羅場を通して、直面した課題は、単純な事実でした。
 約束・ことばと牧師給・牧師館のいずれを重んじるかです。

 牧師給・牧師館から離れ、約束・ことばの道に留まり進む細い道において、敬愛する先達・佐藤全弘先生が紹介してくださった、吉野秀雄『良寛』(アートデイズ)が導きなぐさめになりました。
 約束・ことばの道こそ、「広い所」への道、
「主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。
 主が私を喜びとされたから。」(詩篇18篇19節)。