対話の神学の恵み

『成長して、愛のうちに』エペソ4章15、16節

2012年年12月2日(日)
日本長老教会東吾野キリスト教
主日礼拝

御父、御子、御霊、生ける三位一体なる神の御名を讃美します。
[1] 序 
今朝、東吾野キリスト教会の12月2日主日礼拝に出席でき、さらに宣教の機会を与えられ、心より感謝いたします。背後にある導きの御手を覚えます。
 エペソ4章15,16節をもう一度お読みいたします。
「4:15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

[2]成長する教会
 エペソ教会は、そうです。東吾野キリス教会は、群れを形成するひとりひとりが整えられながらキリストのからだとして「建てあげる」と建物に関係する用語を用い恵みの事実をパウロは表現しています。
同時に、15,16節で繰り返し「成長」に焦点を会わせ、教会の姿を明らかにしています。
しかし教会の成長についてパウロは教えるだけでなく、エペソ3章14−21節に見るように祈っています。教えと祈りは不可分です。
 エペソ教会のためのパウロの祈り(3章16−21節)を、東吾野キリスト教会のための祈りとして、私たちも心を合わせたいのです。
父、御子、御霊三位一体の生ける神への祈りです。
「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、
御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」

[3]「愛のうちに」
1.キリストの愛、個人的人格的
「キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられた」(4章7節)。ひとりひとりがそれぞれ与えられた力量にふさわしく働くのです。誰ひとり何もできない人はいない、何の仕事もないという人はいないのです。必ず役割とそれを果たす力を備えられているのです。

2. キリストの愛の共同体として
キリストの愛に励まされた個々人の営みが大切です。
しかも、それぞれがばらばらに働くのではなく、「しっかりと組み合わされ、結び合わされ」成長して行くのです。こうして教会はキリストの愛のうちに建てあげられるのです。

[4]集中と展開
(1)集中 成長についての聖書の励まし
 コロサイ2章19節
「かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」

Ⅰコリント3章6節、「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神。」

(2) 展開 成長の事実による励まし、こども、いのりの年配者、いつでもどこでも
①子供の存在
主イエスの幼児期の成長に見るように、親の目ばかりでなく誰にでも認められる。
ルカ2章40節「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」
 
②老年期の成長、本人を含めて多くの人々に認めにくい、しかし確かに成長なのです。
イザヤ40章30,31節に見る【主】を待ち望む」成長し続ける老年の姿のように。
そうです、勇気を失わないのです。
Ⅱコリント4章16節「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」。

③いつでも、どこでも成長。あらゆる点において成長し
聖書をメガネとして神の成長の恵みの事実を認め感謝に満たされ、ローマ8章23節の道を地道に進むのです。
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」。心の中でうめきながらの成長です。死を乗り越える成長です。

☆主にある僕仲間遠藤勝信先生が、私の営みを対話の神学と呼び励まして下さいました。
東吾野キリスト教会の古川和男牧師から主日礼拝での宣教の翌日に受け取ったメールは、
対話の神学の実例かと感謝しました。
 古川和男牧師は、1990年東京基督教短期大学専攻科卒業、私は、聖書解釈学と新約神学を担当しました。今回、卒業以来の再会でした。

「宮村先生、君代様
昨日は、遠方までお越しくださり、幸いな、そして笑いの絶えないひとときを過ごさせていただき、ありがとうございました。
先生のお話ももちろん、やっぱり奥様にも、奥様の角度・視点から補足をいただけたことは、他ではなかなか不可能な機会だったのではないでしょうか。
先生が、私の背景まで覚えてくださっていたことも驚きでしたが、ますます意気軒昂なお姿にも驚かされました。

夜の小会会議においても、別の学びをしつつ、説教の分かち合いにもなっていました。
「うめきつつ、成長する」というあたりがまた、印象的でした。
また、最後に、先生御自身のご家庭のことも、赤裸々にお分かちくださって、ありがとうございました。
夫が信じない、妻が教会から離れている、子どもたちに信じて欲しい、それぞれの痛みは、心情的には「引け目」となりがちですから、先生のご家族の話を聞いて、かえってみなさん、励まされたはずです。

祈りつつ歩む、というとき、「祈りをささげる」という日本語はすばらしいなあ、といつからか思うようになりました。
「祈り」を「ささげる」のですよね。ささげてしまう、手放し、もう自分のものではないと考える。
それでも、願いは絶えず出てくるのですが、そのたびに祈る、ということは、繰り返して願いを神様に申し上げて、ささげてしまう、手放し続ける、ということである。
夕べ、小会への道すがら、説教を反芻して歩きつつ、改めて考えたことでした。
・・・」