講壇からの説教に根差す営み『礼拝の生活』再考その123

1973年3月25日
『礼拝の生活』123号
 
(巻頭言)「三年の歩みの中で」
 
この三月で、青梅キリスト教会の一員として歩みを始めてから満三年になります。四年目を迎えようとしている今、何かはっきり一つの段階を過ぎつつある気がしてなりません。
 
三年前、十年来の心友雨宮牧師の後任として、青梅キリスト教会に招かれたとき、特に二つの大きな目標を持っていました。
それは、第一に聖書の豊かさを知り、第二にキリストのからだである教会の豊かさを知ることでした。この目標は、勿論、単に個人的なものではなく青梅キリスト教会全体の目ざすところであったと確信します。
この三年間の歩みの跡は、私たちの標語をそのまま用いて名づけた『礼拝の生活』などを通して、一応全体に思い巡らすことができます。
 
この三年間の歩みを思い巡らし始めたら際限がありません。激動の七十年代と言われた年から三年です。西の端とは言え、東京都に位置する教会です。人口八万近くからすれば、物の数と言えないとしても、主日の公同礼拝に集う人々は、社会のあらゆる面で現実的に戦っている者ばかりです。公同礼拝に集うメンバーも、種々の理由で変わった面もあります。
結婚その他で各地に移り。それぞれの場所で信仰の善き戦いを戦っておられる懐かしい人々。新しく群に加えられた人々。小さな群にも、この三年間実にいろいろな出来事がありました。
あまりにも忙し過ぎるのではないかとの反省がでる程、いろいろな試みもしてきました。五ヵ年計画などと、一応の将来に対する展望を持つようになりました。このように青梅キリスト教会の三年間の歩みは、泣きながらの歩みであり、喜びながらの歩みでした。
結局教会は生きものです。生ける神が実に神秘であり、生ける私たちひとりびとりが神秘であるように、生ける教会も神秘です。私たちの一面的な物指しでは判断しきれない面が常にあります。青梅キリスト教会の三年間の歩みを具体的に思い巡らし始めた瞬間、教会は生きものとの感が強く迫ってきます。 
では生きものとしての教会の特徴は何でしょうか。いろいろなことが考えられるでしょう。しかし、今、最も重要に思われるのは、対話の一事です。
この場合、対話というのは、皆で仲良く話合いましょうという以上のことを意味します。それは、唯一の、生ける、真の神がいまし、私がいるという驚くべき事実に立つ神と私の対話です。神と私の対話に生きる兄弟が現に生きている事実を見て、兄弟と私の間に生じる。主日の公同礼拝は、その意味で、最も重要な対話の場であると心から確信します。主日の公同礼拝。このとき。この場こそ、まさに対話の場です。生きものとしての教会が最も生き生きと見える時です。
対話に生きる教会が、存在の奥底から生ける神に聞き、語るときです。父、御子、御霊なる神ご自身の中に、呼び入れられ、「アバ、父よ」と叫ぶのです。教会全体が、そこにともに座する兄弟姉妹(肉においてと霊においてを問わず)の存在から聞き、自分の存在をもって語るのです。そして、この対話をもって始められる主日の公同礼拝を出発点として、私たちの一週間の歩みが続けられます。つまり、礼拝の生活とは、真に対話の中に生きる生活です。主日の公同礼拝を中心として。
 
ですから、私たちの中に、教会堂にお参りに行くような傾向が生じるとすれば、そのような傾向と激しく戦わねばなりません。教会があって、そこに私が全く受身の形でおまいりに行き、他の人々とは係わりを持たず、主日と他の日々の生活が無関係であるなら、私たちの教会は、単に一つの形式的な宗教、しかも外見のぱっとしない形式宗教になってしまいます。
受身だけではだめです。各自が自分がそこに存在しなければ、教会は成立たないことを深く自覚する必要があります。私をぬきにして教会が考えられないと各自が悟るとき、教会をぬきにして私を考えられない恵みの事実を再確認するでしょう。そのとき、青梅キリスト教会は、真に対話の中に各自が、教会全体が生きる群としての戦いをさらに推し進めることになると確信します。
 
教会との関係が、単に受身だけではだめなのと同じように、教会は一方的な自己主張だけの場でもありません。他の人の存在を素直に認めて他者の存在から聞く場です。たとえ言葉になっていなくとも、豊かに語り続けている他者の存在そのものに聞くことなくして、真の自己主張はなされません。空しい独話や勝手なおしゃべりであっても、生きた対話とはならないのです。
現代のような時代にあって、青梅キリスト教会が、二つの極端に落ち入ることなく、真に対話に生きる群として進み得るかどうか、この点が今三年の歩みを終えようとするにあたって、私の心の中に強く迫ってくる課題です。
そしてこの課題を考えるとき、もう一度、聖書の豊かさを真に徹底的に味わいきっているかと問われるのです。聖書に聞くことが本当になされていないとき、対話の源から断ち切られていることを恐れます。本当に恐れます。
 
最後に、あのパウロのことばを一緒に読みたいものです。Ⅱコリント4章7節から18節まで、文語訳聖書を持っておられる方は、是非一度文語訳でも読まれることを勧めます。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかにされるためです……。」

☆1970年からの3年間に、青梅キリスト教会に根差しながら、私自身にも幾つかのことがありました。
①1971年3月上智大学神学部神学修士卒業
②1972年4月より日本キリスト神学校で新約聖書関係の授業を担当。
③1972年『新聖書注解』にテサロニケ人への手紙 第一、第二の注解
続いて1973年『新聖書注解』にコリント人への手紙 第一の注解
 これらのすべては、青梅キリスト教会の講壇からの説教に根差す営みでした。