自立と協調『礼拝の生活』再考その114「自立と協調―今年の歩みの中で―」

1973年1月7日
『礼拝の生活』114号

(巻頭言)「自立と協調―今年の歩みの中で―」 
 今年、私たち青梅キリスト教会の歩みは、実に厳しいものになると考えられます。
なぜ厳しいものになるかの根本理由は、明白です。群全体としての歩みが、一つの飛躍をなすかどうか、内外ともに試みを受ける段階にきているからです。私たちに与えられ続けている神の恵みに、私たちがどのように答えていくかが問われています。責任と犠牲をもって応答していくかどうかです。
私たちが、今年この厳しい道をあえて選ぶことをせず、ただ自己保存だけで満足してしまうなら、教会としての形式は残ったとしても、世の光、地の塩としての使命を果たしていない、つまり使命に生きない群となってしまいます。その意味では危機的な年です。

 では、私たちがあえて選ぶべき厳しい道とは、一体どのような道でしょうか。それは、依存・あまえと戦いつつ自立していく道。
孤立・わがままと戦いつつ協調していく道です。
そうです、教会全体として、幼年期や幼少期から青年期さらに壮年期へと進んで行く道を選ぶのです。
 
私たちは、依存しあまえやすいものです。ですから常に注意し意識的に戦うのでなければ、私たちの信仰生活も、本来依存してはならないものに依存してしまいます。
唯一の生ける神の前に立つ自由と責任を与えられている者として、私たちの中に体質的に忍び込んでいるあまえと真剣勝負をしなければなりません。教会全体としての歩みにおいても、各自の歩みにおいても。
たとえば、あのモーセのようにです。
 「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」(ヘブル11章24−27節)。

私たちもまた、真の神のみ前に自立する者として、何を拒み、何を選び取り、何を富と思い、何から目を離さないか、どこから立ち去るべきか問われています。見えない方を見えるようにして、忍び通す生き方こそ、私たちが今年選び取るべき厳しい自立の道です。
 
しかし、自立の道は、孤立ましてわがままの道と混同してはならないのです。私たちは、孤立しやすい者、わがままに陥りやすい者です。そして使命を軽視したり、忘れて尊い恵みを浪費してしまうのです。
ですから私たちは、注意し意識的に戦わねばなりません。その戦いの方向は、イザヤの体験が指し示して方向にあります。イザヤは、神のみ前に立たさ真に自立したとき、
 「ああ、私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた民の間に住んでいる
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから」と告白しています。
そのイザヤに対して、罪の贖いの道が開かれたのです。
 「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」しかも、罪贖われたイザヤは、主の声に答えて、「ここに、私があります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:1以下)と、遣わされた者、使命に生きる者としての道を選びました。進むべきは、この道です。

☆上記の文は、30代初めの牧師の文だなと73歳の今実感します。
今、この勢いのある文章を書けません。
文章が生み出される牧会状況にありません。

 今は今の状況に生かされ、この状況での文を紡ぐ使命を、それなりに与えられていると自覚しています。

 それと共に、30代、40代の友人たちが、その年代でなければ書けない、勢いのある文章を書き上げるよう応援、旗振りをしたいとも考えます。

 30代、何とよき日々。70代もなかなか。