「聖書の読み方」「礼拝の生活」再考その106

1972年11月12日
「礼拝の生活」106号
 
(巻頭言)「ゆっくりと、しかし確実に」 

11月3日、日本同盟基督教団多摩教会の修養会で、「聖書の読み方」の主題でともに学ぶ機会が与えられました。
 
「聖書の読み方」について知るためには、何よりも、「聖書は何か」をはっきりさせないといけないとつくづく痛感しました。そして、聖書をいかに読むかは、聖書がいかに書かれたかと密接な関係にあると教えられました。

神のことばである聖書が書かれた方法で最も印象的な事実は、聖書が長い期間に渡って、多くの人々を通して書かれた事実です。全能なる神は、すべてを一度に明らかにすることが可能であるにもかかわらず、実にゆっくりと時間をかけて、ご自身のみ旨を明らかにされたのです。それは、驚くべき神のご忍耐によるものです。ゆっくりと、しかし確実に、神はご自身のみ旨を啓示されたのです。
 
聖書がいかに書かれたかを考える場合と同様なことを、聖書がいかに読まれるかについても認めねばなりません。全能なる神は、すべてを一度に私たちの心に刻みつけることが可能です。しかし、事実、神は聖書を読み続けることを通して、ゆっくりと、しかし確実に私たちに語りかけられる方法を選んでおられます。

私たちは、聖書を書かしめた神の御霊が私たちを現実に助けてくださっている事実を信じます。ですからどれ程ゆっくりと見えても、望みに満たされ聖書を読み続けるのです。神の恵みの中にある成長の法則に従い神のご忍耐に感謝しつつ、実を結ぶ喜びに満たされながら歩むのです。
ゆっくり、しかし生きた歩みを。死んだものでも、いねむりでもなく。

1972年11月12日、日本同盟基督教団多摩教会の修養会で、当時まだ弁護士の卵であった、細田浩兄と初めて会いました。開拓教会のまだ狭い集会場所でのことでした。

この8月に刊行された『礼拝に生きる民 説教 申命記』に、細田弁護士が、巻末エッセイ「出会いものがたり」を書いて下さっているのです。
 既刊の『申命記 注解』を含めて編纂し刊行することを考えて企画されていたのに、既刊の注解を略し、「説教 申命記」のみを内容とする形で、少しでも早く刊行をとお願いしたのは、3年前、多忙な中で、いち早く原稿を書いてくださった細田兄の好意をこれ以上放置しているのがしのびなかったからです。主にある出会いに感謝。