聖書に見る「小」『礼拝の生活』再考その104

1972年10月22日
『礼拝の生活』104号
 
(巻頭言)「小さな一歩」 
 
私たちは、この夏以来、家庭礼拝の重要性を改めて教えられてきました。
現実に、幾つかの家庭で家庭礼拝が守られるようになりました。それでも依然としていろいろな障害があります。
しかし家庭礼拝も他の大切な事と同様に、単に開始するだけでなく、やり続けることに意味があります。この点においても、平凡との戦いに勝利したいものです。
 
こうした中で、10月27日からの特別集会を前に、幾つかの家庭で家庭映画伝道会を開くことは、家庭礼拝とともに、さらに小さな一歩を踏み出すことになります。

特別集会と言えば漠然と集会案内を配布して、人々が教会堂に一定の時間集まって来るのを待つのが、今までの私たちの方法でした。
しかし今回は、それぞれの家庭に近所の人々、友人や知人を招いて、そこであかしをするわけです。映画というより間接的な方法で、確かに小さな一歩に過ぎません。でも踏み出したことには違いありません。

しかもこの小さな一歩は、決してきれいごとでは済みません。
教会堂・よそゆきの場所ではなく、家庭・日常生活の場で、私たちの信仰生活が生きているかどうか問われます。ですからきれいごとでは済みません。

しかし同時に、私たちのありのままの姿の中でのこの小さな一足がとても大切であることは確かです。私たちの弱さをはっきりと自覚しながら、世の光・地の塩としての使命を果たしつつ生きることは、決してきれいごと、よそゆきごとではありません。
この小さな一歩が、私たちの歩みの中で、大きな意味を持ち続けるように祈ります。

1972年から2012年の現在まで40年、聖書に見る「小」について、具体的な聖書箇所に基づき思い巡らしてきました。
★たとえば、
①ルカ16章10節
「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、
小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」

②マタイ18章1−10節
「そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて」(18章2節)。

「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです」(18章10節)。

詩篇117篇
「小さく、雄大詩篇117篇」宮村武夫著作1『愛の業としての説教』240頁以下。

④Ⅰサムエル17章
ペリシテの代表選手ゴリアテと戦うダビデの手にあるなめらかな五つの小石の一つ。
「自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。」(18章40節)。

ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。」(18章49節)。

心に思い定めた指針。
 どんな小さい人も、小さいこともあなどらない。
 どんな大きな人にも、大きなことにもたじろがない