『神から人へ・人から神へ』『礼拝の生活』再考その103

1972年10月15日
『礼拝の生活』103号
 
(巻頭言)「救い、祈り、伝道」 
 
 10月22日の主日礼拝は、特別集会を前に、あかしを中心とした伝道礼拝です。
これは、私たちの教会にとって新しい試みです。
 
 中学生、高校生、青年、婦人、男子とそれぞれの立場から、五、六分の時間を通してあかしを続け、あかし全体として私たちに向かって現実に語りかけられようとなさっている主なる神のみ旨を鋭くとらえていきたいと切望しています。
 
 あかしの内容は、それぞれの個人的な入信のあかし、また他の人のために献げられる祈りについて、さらには他の人々を主なる神へ導く実際的な伝道についてのあかしに集中していきます。そのことを通して、10月27日(金)からの三日間の特別集会のために、教会全体として心の奥深く最後の備えをするのです。
 
 聖書全体を通して実にはっきりとしている原則は、神のみことばが語られるとき、民が語られるみことばに応答する責任がある事実です。
つまり、神からの一方的な語りかけだけでなく、神への賛美、祈り、感謝の献げ物を中心とする神への応答が公同礼拝においても重要な位置を占めるのです。
それは、単に公同礼拝の時だけに限られるのではなく、私たちの生活全体が神の語りかけに答える礼拝の生活としての大切な意味を持つのです

 ですから、10月22日のあかしを中心とする礼拝は、普段私たちの日常生活の中で進行している礼拝の生活を眼に見える形で、また耳で聞こえる形で現すに過ぎません。
 
 私たちの公同礼拝において救いの喜びがあふれ、あのハンナの祈りが献げられ、
Ⅰサムエル2章1、2節
「私の心は【主】を誇り、
私の角は【主】によって高く上がります。
私の口は敵に向かって大きく開きます。
私はあなたの救いを喜ぶからです。
【主】のように聖なる方はありません。
あなたに並ぶ者はないからです。
私たちの神のような岩はありません。
・・・」。
 
 そしてサマリヤの女の伝道の決意がなされますように、
ヨハネ4章39節、42節、
「さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、
『あの方は、私がしたこと全部を私に言った』と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
・・・
そして彼らはその女に言った。『もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。』」。
主日礼拝においてばかりでなく、私たちの日常生活において。

宮村武夫著作5の書名は、『神から人へ・人から神へ』「聖書・神学」で、編集委員長の永田竹司先生が選んでくださいました。
 1986年4月に沖縄に移住するまでに書いた、説教の充実を目ざす実践的目的の炊いた論文を集めたものです。その全体を一貫する主題・柱を、神からのことばに基づきながら、人からの応答を同時に含む、『神から人へ・人から神へ』と永田先生は提示してくださったのです。
 これは、まさに1972年、青梅キリスト教会の主日礼拝と日常生活、そうです、礼拝の生活で確認し確信していた恵みの事実です。

 制約の中でも、『神から人へ・人から神へ』「聖書・神学」が、世の現実の中で活用されるように心を定めて祈ります。共にお祈りいただければ、実に幸いです。