「教会は生きもの」『礼拝の生活』再考その96

1972年7月30日
礼拝の生活』96号
 
(巻頭言)「教会は生きもの」
 
 
尊愛する先輩の牧師と電話で話している際、「教会は生きものだから」との言葉を実感をこめて言われました。
本当にその通りだと共感しました。教会は、生けるキリストの生けるからだ、生きものです。生きものである教会は、苦しみます。悲しみます。そして、喜びます。
 
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12章15節)。
 
「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もう一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは、各器官なのです(Ⅰコリント12章26、27節)。
 
では、教会を生かす原動力は何でしょうか。もう一度、公同礼拝のクライマックスとも言うべき、祝祷のことばを深く味わう必要があります。
 「イエス・キリストの恵み、
神の愛、
聖霊の交わりが、
あなたがたすべてとともにありますように
。」
              (Ⅱコリント13章13節)
 
イエス・キリストにあって頂点に達する神の愛からほとばしりでる恵みこそ、今、私たち教会と各自の中に注がれている聖霊の実際的な導きの中に、心と生活と生涯を生かす原動力となっているのです。
 七日間の中に、喜びがあり悲しみがあり、教会は生きものとの実感を強められます。しかし、何によって生かされているかが重要です。

40年前の上記のことばに、今この時、深く共鳴します。
今回出版できました、宮村武夫著作2『礼拝に生きる民 説教 申命記は、まさにこの線上の歩みのそれなりの結晶であると判断します。

 主日礼拝を中心にした礼拝の生活全体の豊かさ。
その全体的な背景の中で、主日礼拝における宣教・説教の役割。
説教が語られている中で、「教会はいきもの」と断言し続ける歩みを継続、継承する責任と喜びを覚えるのです。