「旧約聖書と私たち」『礼拝の生活』再考その91

1972年6月11日
『礼拝の生活』91号
 
(巻頭言)「旧約聖書と私たち」
 

青年会主催で月一回イスラエルの歴史を学ぶ集まりが、6月第二主日午後から持たれようとしています。イスラエルの歴史と言っても、主に旧約聖書通論と言ったものです。地味な歩みを続けている青年会が教会全体のためにこのような機会を準備してくださり感謝しています。
 
ところで、この機会に旧約聖書が私たちにとって持つ重要性をもう一度確認するのは、決して無駄なことではありません。私たちの信仰生活が、神のことばである聖書に基づいている基盤を忘れているなら、私たちの信仰生活は、たとえ自分でどのように思っていても、根なし草のように頼りないものです。

聖書は、実に、私たちの信仰と生活の唯一の規範です。
聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(Ⅱテモテ3章15−17節)とある通りです。

そして聖書は、旧約聖書新約聖書から成り立っているのです。ですから、私たちが、聖書を自分自身で読み、味わい、「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるために」、大切なことの一つは、旧約聖書に何が書かれ、どのように書かれているかを知ることです。そして、旧約聖書新約聖書の結びつきを自ら深く味わうことです。旧約聖書新約聖書を自ら深く味わうのです。旧約聖書新約聖書を一貫する流れと発展をとらえ、全体の流れと発展の背景を充分注意しながら、聖書の各部分を読み続ける必要があります。

今度青年会によって計画された集まりがいかにささやかなものであっても、以上の目的のために大いに用いられるようにと願わざるを得ません。そして、教会が聖書を全体的に聞き、それぞれが生かされている現況の中で、聞き従っていけるよう祈ります。
 
私たちが教会全体の歩みの中で旧約聖書をどのように実際的に重んじているかを反省する必要もあります。水曜日の聖書研究会では、モーセ五書のいずれかを学ぶスケジュールになっています。この数年について言えば、創世記、出エジプト記を学び、現在申命記を学んでいるわけです。このモーセ五書の学びは、聖書全体のメッセージを理解する大切な鍵です。今後も許される限り何回もモーセ五書を繰返し学び続けます。

さらに主日礼拝の交読文で読まれる詩篇も単に主日礼拝で読むだけでなく、各自が読み、考え、味わい、その準備がなされた中から、声と心を一つにして交読がなされるように努めたいものです。
また早天礼拝では、預言を学んでいます。しかし早天礼拝の出席者が限られている現況では、どのように教会全体の共通した学びとされていくか今後の大きな課題です。
家庭集会でも、許される限り旧約聖書の学びを加えるようにしています。その他私たちの教会にとって大切なものとして、『みことばの光』による聖書日課を通して、旧約聖書を味わう機会があります。以上の教会全体の学びは、各自が個人的に旧約聖書をそれぞれに味わう基本を軽視するものではありません。
 
こうした中で、旧約聖書を全体的にとらえていこうとする試みが、何らかの形で実を結び、私たちがより一層みことばと御霊の導きによって、神のみ旨を知り、その恵みに応答していけるように、共に祈りつつこの新しい機会を大いに用いましょう。

今回、宮村武夫著作2『礼拝に生きる民 説教 申命記』を刊行でき、すでに好意的な応答を受け取り、感謝しています。
この説教集は、1970年以来、青梅キリスト教会で旧約聖書を読み続ける歩みの中から生まれたのです。
 
直接的には、1984年6月から1986年3月まで2年間、月1回、無牧の首里福音教会主日礼拝のため、申命記のテープ説教と印刷した説教を青梅キリスト教会小作集会所(牧師館)から送り続けたのです。
テープに説教を吹き込む時には、早朝背広を着て、牧師館の一室にある小作集会所の説教台の前に立って、首里福音教会の会衆に語りかけていた事実を懐かしく思い出します。

旧約聖書を読み続ける恵みの中から生まれた本書が、旧約聖書愛する人々に少しでも役立つ、さらには旧約聖書を新たに愛する人々が起こされるために用いられるなら、嬉しい限りです。