「突然か必然か」『礼拝の生活』再考その92

1972年6月18日
『礼拝の生活』再考92号

(巻頭言)「突然か必然か」 
 先週から今週にかけて、身近かで三浦さんをはじめ三人の方が、二十代や三十代の若さで突然亡くなられました。それぞれの方の様子を聞けば聞くほど、突然との感を否定できません。

そして引き続いた飛行機事故。
私たちの若さとか健康などは、死の事実の前にはいかに頼りにならないものか、痛感させられます。そして死を突然のものとしか受けとめることのできない、自らのゆるみを今更のこととして指し示されます。
 
「しかし、キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(ヘブル九26〜28)とあるように、また事実が明らかに示しているように、死は私たちにとって必然です。
必然の死が私たちにとって多くの場合、突然と受け取られるところに、私たちのゆるみがあるのです。

死を必然として受けとめ切れないのは、キリストご自身がいけにえとして罪を取り除かれたために死なれた事実とキリストを待ち望んでいる人々の救いのために来られる事実を、はっきりと見据え続けていないためではないでしょうか。私たちの平凡な毎日の中で、忙しい毎日の中で、歯車のようの動き続ける毎日で、
 「死を憶えよ
  主を憶えよ

私たちの家庭では、子供が小学校の頃から、「お父さんが死んだら、まさかと言わないで、やっぱりと言って」と話し続けてきました。お父さんは、いつも死を意識しているのだからと。

 先日、長男忍望家族が訪問。私の葬式が話題になっていく中で、青梅時代の家庭生活を改めて思い出しました。