「喜び、熱心、忍耐」『礼拝の生活』再考その90

1972年6月4日
礼拝の生活』90
 
(巻頭言)「喜び、熱心、忍耐」

キリスト者、教会の最も大切な特徴は何かと言えば、それは喜びです。どんな喜びかと言えば、隠された宝を偶然な機会によって発見した人や、長い間求め続けた良い真珠をついに発見した商人のように、救いを見いだした喜びです。より正確には、自分が神によって見い出されていることを見い出す喜びと言った方がよいでしょう。

この喜びの源なしに、私たちは、キリスト者、教会の生き方を考えることが全く不可能です。この喜びの原点を忘れるなら、私たちの信仰生活は内面から風化してしまいます。

救いを見出した喜びに満たされるキリスト者、教会は、比較すべきものもない宝、真珠のゆえに(マタイ13章44,45節参照)、誰に強要されなくとも、他のすべてのものを捨てても、救いをまっとうしようと熱心になります。救いの価値を知るゆえの熱心。熱心に駆り立てるのは、内なる喜びです。救いの喜びとは、眠りこけることではありません。ほとばしり出て熱心へと駆り立てるものです。その熱心は、周囲の事情に左右されない、救いの事実に基づくものです。

しかも、喜びや熱心は、善悪がゴタゴタし混乱しきっている現実の中で現されます。私たちに、直ぐに白黒を分け、自分の気持をすっきりとしていたいと常に望みます。しかし、神は時を支配されます。一見混沌として見える世界に、終末の審判を確信する者として、現実に忍耐を持って、喜びと熱心をもって生きていくのです。

熱心は、決して狂信ではありません。心が熱くなっていても、心が狂っているのではないのです。
私たちは、神の審判に先走りすることなく、喜び、熱心、忍耐の三原則に従って生きるのです。

★今も、全く同じ確信です。
40年、同じ確信で歩むことを許されました。
死に至るまで、同じ歩みを続けさして下さいと祈ります。
それが、喜びカタツムリの歩みです、感謝。