教会と地域の関係『礼拝の生活』再考その77

1972年2月20日発行
『礼拝の生活』77

(巻頭言)「新約教団総会と奥多摩集会―教会と地域について―」

2月10、11日には、新約教団の総会、また2月12日、13日には、奥多摩町で特別集会がありました。それぞれの報告やあかしは、今後の『礼拝の生活』で紹介したく願っています。
 この二つの集会を通して、教会と地域についてもう一度考えさせられます。
日本新約教団総会には、栃木、埼玉、東京、神奈川、山梨、静岡など諸教会から代表が集まってきました。それぞれ異なる地域社会の背景の中で、福音がいかに伝えられ、いかにキリストに従い生きているか証人として集められた人々と言えます。
そうです。福音は、地域に制約されることなく伝えられるのです。キリストの教会は、地域の違いを乗り越えて、その生き生きとした成長を続けていく。この事実を、目に見える形で教えられました。
 
しかし、他方、奥多摩町での集会を通して、教会は、決して、地域性を無視するものでないことを強く教えられます。他のどこでもなく、奥多摩町で福音宣教がなされ、キリストの招きがなされ、キリストの体なる教会が目に見えて誕生成長してくるようになるのです。キリストの教会は、奥多摩町という地域を、決して無視したり、軽視したりしません。
 
教会と地域について、どう考えるべきなのでしょうか。この二つの集会から、教会と地域関係の二面性を見るべきです。
教会は、それぞれの地域に根ざしつつ、しかも、地域に制約されることはない、地域の壁を超えて、成長し続けるのです。
ですから、新約教団総会と奥多摩町での集会は、両方とも、青梅キリスト教会にとって生きた課題です。

教会と地域の関係。これは、私の生涯の課題の一つです。
埼玉寄居、東京青梅、沖縄首里での生活を一貫して、キリストご自身の受肉に深く根差す、教会と地域の関係は、1970年代に自覚しているように、地域に根差し地域を越える恵みの事実として心に刻まれて来ました。

 地域と地方の明確な区別も、私にとって、重要な課題です。
中央−地方の見方は、根本的に非聖書的であり、批判し克服されなければならない。
地方と似て非なる地域性こそ、掘り下げ続けるべきかだいです。
何を視点として何が視野に入ってくるかは、興味深い課題であり、聖書の読み方、また聖書で物事を見て行く、双方の営みで大切な鍵であると確信します。