「教会と建物」『礼拝の生活』再考その76

1972年2月13日
『礼拝の生活』再考その76

(巻頭言)「教会と建物」 
 青梅キリスト教会とは、東青梅6−10−14に立っている建物ではない事実を、すでに何回も私たちは学んできました。
キリスト教会とは、キリストに招かれ呼び出された神の民の集まりです。キリストの体とされ頭なるキリストに従いつつ生きる、キリストを中心とした生命体のことです。
ですから、キリスト者各自を離れたところに、キリスト教会は全く考えられません。
また、この意味でキリスト教会を離れて、キリスト者の存在を考えるのも不可能です。
 
では、そのような教会にとって、建物はどんな役割を果しているのでしょうか。
第一に、教会の歩みにとって最も大切な主日の公同礼拝の場所を備えてくれます。
建物がないため、主日の公同礼拝の場所を備えるためにいかに苦労したかは、青梅キリスト教会初期における忘れがたい体験であります。
現に、そのような苦労を味わっている教会も、数少なくありません。
しかし、建物は、単に主日の公同礼拝のためにだけ用いられるのではありません。その他の諸集会をはじめ、信徒の交わりのために大きな役割を果すべきです。
また地域社会に対する無言のあかしとして、さらに、福音宣教のセンターとしても、各自の生活に密接な係わりを持っています。
 
では、建物は、教会にとって、利点となるばかりでしょうか。何かマイナスになる可能性はないでしょうか。それはあります。建物が教会の本質を隠してしまう危険があります。また建築が莫大な費用を必要とするため、教会の他の面での活動が制約されてしまう事態も起こりえます。
また建物が出来あがったことが、教会の成長と混同されて自己満足に陥ってしまうこともありえます。
 
こうしたマイナスの可能性も正直に認める必要があります。
また私たちの場合には、今後8年間に、現在の建物の費用の一部である300万以上の会堂返済金を支払っていく責任の重さを自覚させられます。
それにもかかわらず、二階に二部屋増築のため、4月2日のイースターに特別献金をすることが、執事会・役員会が決定したのは、なぜでしょうか。
 日本の教会堂として、畳の部屋が是非ほしいとの願いは、建物が設計された当初からのものます。そのように設計され備えてあったので、30数万円で畳八畳と六畳を増築することが可能なわけです。畳の部屋は、私たちの交わりに落着を与えてくれます。
また、将来、幾つかの祈祷室が備えられる初穂と見ることもできます。
 プレハブが、中学生や高校生の集まりのために果たしてきた役割を、畳の部屋が、シメオン・アンナの会の年配の方々のために果すことを期待したいのです。
 また、牧師館の機能を補うために畳の部屋を用いることも考えられました。
週末に泊まる神学生、牧師館を訪問する人々、また教会の修養会などのために、現在の牧師館を補って、新しい部屋が大いに用いられることが期待されます。
 
このように考えてくるにあたって、昨年のプレハブ建設の経験が私たちを励ましてくれたのは確かです。必要を見つめ、そのために献げる喜びを味わい続けたいのです。
 4月2日のイースター、私たちは二階の増築のために特別献金を献げます。
教会とは何か、改めて考えていきます。
建物の利点ばかりでなく、マイナスの可能性も充分注意しましょう。この新しい部屋が、奥多摩や小作での福音宣教のために、間接的にでも役立つように期待します。

青梅での16年と沖縄での25年、会堂の増設や建設は、常に課題でした。
多くの祝福、恵みを経験してきました・
その中で、建物が教会にとってマイナスになる可能性を、40年前も想定していたことを今回改めて確認しました。
しかし会堂が充実し牧師給や保証が整えられ教会がそれなりに富むことによる戦いが、教会の貧しさにおける戦いより一段と厳しいものである事実は、40年前の想定を越えるものでした。私なりに修羅場を通過することにより見えてくるものがありました。
教会史で初代教会から中世の教会への移行について学んだことのミニチア版です。