『喜びカタツムリ』はじめの一歩②

★『恵みから恵みへ』98(2010年5月10日)

恵の聖句
「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。」(マルコ16章7節)

[1]序
昨12月18月脳梗塞を発症し入院、多くの方々の背後の祈りと支えを受け、リハビリを継続しながら100日余り各種の医療従事者にすっかりお世話になりました。

お蔭様で4月2日に退院することが出来、さっそく4月4日には、那覇バプテスト教会イースター礼拝に出席、皆様に喜んで頂きました。主の驚くべき復活の事実に対する、小さな小さな復活の証と、ある方のことばに励まされて、そうあえて言いたいのです。

退院後は、不自由な左手・指や杖を用いての三階のアパートへの上り下りなど、思わぬことでも日々我が身の弱さを経験しています。しかし同時に恵み深い支えを時々に味わい知らされております。
 
4月の目標でした。4月17日(土)午後沖縄を出発、4月18日(日)千葉県市川市の聖望キリスト教会での主日礼拝と午後の聖書味読会(四福音書の読み方の手引き)での宣教に集中でき、心から感謝しています。
沖縄でも羽田でも、行き届いた車椅子のシステムに驚き喜びました。またリムジンバスを活用したのです。沖縄出発から18日の最終便で沖縄に帰るまで、杖をつきながら君代の全面的支えを受けての旅。それでも背後の祈りの支えを受け、杖を信仰の杖と感じるほどでした。感謝。

 聖望キリスト教会の集会場を提供し、二人の代表者の一人である大竹堅固兄は、私の中学1年時のクラスメイトです。 
入学直後の自己紹介のとき、「『堅固』という名は、クリスチャンである両親が賛美歌からとってつけたんだ」と言った大竹君の言葉を、60年後の今もありありと記憶しています。  
私たちは、1939年の生まれです。天皇制が絶対的な圧力をかけていたあの時代に、わが子に賛美歌から名をつけはっきり証しする、大竹君のご両親の旗色鮮明な信仰!戦前の教会を十羽一からげに判断することなどできないのではないか。

以下、当日の主日礼拝でと午後の聖書味読会における宣教の報告をいたします。

[2]「助け主・真理の御霊」
ヨハネ福音書14章15節〜17節

[Ⅰ]序
(1)3月3日に、大竹ご夫妻の手で聖望キリスト教会に届けました手紙に、
「4月18日の主日礼拝。聖望キリスト教会での宣教を祈り備えています。
1月に、大竹兄から話があったとき、『そんなこと、不可能だ』と否定する力すらありませんでした。」(『恵みから恵みへ』97、4頁)と書き記しました。

(2)ただただ、主の一方的な憐れみの導きの中に、
4月にヨハネ14章
7月にヨハネ15章
10月にヨハネ16章それぞれの一点に集中、主日礼拝で味読・聴従する機会が開かれつつあります。

この朝、一人の先達のことばに励まされ、一つの態度、覚悟を私たちなりにしっかりと心に刻みたいのです。励ましとは、
「ある一つの偉大な事実に対して、巌のような確信を抱き続け」よです。
「ある一つの偉大な事実」、そうです。キリストは、慰めに満ちた助け主を、使徒たちそして聖望キリスト教会の私たちに確かに約束なさっているのです。

(3)ヨハネ1章14節、16節に見る「私たち」は、元々、ヨハネと最初にヨハネ福音書を読んだ人々を指しています。
しかしそれだけではない。あらゆる時代、あらゆる場所でヨハネ福音書を読んで主イエスを信じ確信を持ち続ける人々も新たな「私たち」として加えられ続けてきたのです。

そして今、ここ聖望キリスト教会でヨハネ福音書を読んでいる私たちも、聖霊ご自身の導きにより、聖書に記されている「私たち」に加えられ、恵みの波紋の広がりの只中でヨハネ福音書を味読してゆく、実に驚くべき恵みの事実ではありませんか。
キリストの約束は、漠然とした一般的な約束ではなく→具体的な約束なのです。
焦点を絞り、徹底的に聴従したいのです。

[Ⅱ]「あなたがた、あなたがたは」
(1)「あなたがたがわたしを愛する」(15節)
聖霊御自身と愛の深い結びつきが、何よりも中心です。
参照ガラテヤ5章22,23節。
愛は聖霊ご自身に委託されており、聖霊ご自身の働きがなければ、私たちは愛することなどできない(隣人への愛も神への愛も)。

(2)「あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(15節)
さらに聖霊ご自身の働きがなければ、キリストの戒めを守ることはできない。
聖霊ご自身の助けと導きにより、イエスを主と信じて生きる道は、単なる音声ではなく、心と行ないに直接かかわり、生活・生涯、教会形成、文化活動、歴史形成として深く豊かに実を結ぶ営みです。

聖霊聖霊と言っても、キリストの戒めを軽視したり、まして無視するなら、その残念な結果は、やがて明らかになります。
参照:テトス1章16節
「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。」
日常生活がいかにも重要であり、鍵です(Ⅰコリント10章31節)。

[Ⅲ]二本の柱
(1)聖霊ご自身は三位一体なる神。三位一体は、永遠の愛の交わり、そしてまさに人間・人格的存在の根拠なのです。

14章16節
「わたし(キリスト)は父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主(聖霊ご自身)」と、誰も否定できないように三位一体を鮮やかに明示しています。

聖霊ご自身は父と、また御子と同質(神性)であり、かつ永遠。
(1) キリストと聖霊ご自身の不可分の密接な関係を聖書は明確に宣言しています。
(イ) Ⅰコリント12章3節
聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」

(ロ)  ルカ4章18節〜21節
聖霊が注がれキリストの御業全体は展開、この事実を証言しています。

[Ⅳ] 集中と展開
(1)  集中「すでに」
神の恵みは、「すでに」十分、恵みの先行、Ⅰコリント12章3節。
聖書全体の宣言を一節で言えば、詩篇119編64節。
聖書の基盤、「はじめに神」創世記1章1節。

(2)  展開「ますます」
 主イエスによる約束、その完全な成就・完成は、「いまだ」なのです。
終末論的信仰(主イエスの再臨、新天新地、その希望を目指して)に、聖霊信仰は深くかかわります。

だめだだめだの絶望と
今までになく、他の人々とは全く違い私(たち)は完全になったと自己満足このいずれからも解き放ちたれて。
忍耐と希望の道、「ますます」の道は、ローマ8章25節に、とてもはっきりと提示されています。この道を日々に、死に至るまで「ますます」進むのです、一歩一歩。

「もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」

[3]「四福音書味読の手引き」

[Ⅰ] 序
 パウロは、テモテに「私の福音」を明示しています。
そうです。Ⅱテモテ2章8節を注意したいのです。
 
「私の福音に言うとおり、
ダビデの子孫として生まれ、
死者の中からよみがえったイエス・キリストを、
いつも思っていなさい。」
 
では、どのようにして、「いつも思う」ことが出来るのでしょうか。
 私たちに与えられている恵みの手段の大切な一つは、四福音書を、聖霊ご自身の助けを求めつつ読み続けて行く道、日々にそして生涯にわたって。

[Ⅱ] マタイとマルコ
(1)マタイの特徴
まずマタイの最初と最後に注目します。
文章の最初または最後に、書き手が一番伝えたいことばや文章を記す場合が少なくありません。

①マタイ1章1節
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト系図。」
アブラハムダビデの間は約千年、ダビデイエス・キリストの間も約千年、そしてイエス・キリストと私たちの間は約二千年の隔たり。
ですからマタイの福音書を、今、聖望キリスト教会の一員として読む時、少なくとも四千年の広がりを明確に意識し大切にする必要があります。このマタイの福音書の特徴に従い味読するのです。

②マタイ28章20節
最後、勿論大切。ある意味で、この結びの文章を書きたいために、1章から28章までマタイは書き重ねているのです。
私たちも、この生きた文章を聖霊ご自身の助けにより正しく、深く、豊かに読み聴従し、この目標を意識しながらタイの福音書を読み続けるのです。

「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも(日々に)、あなたがたとともにいます。」
「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのこと」、それはマタイの福音書に書かれている、さらに誰でもが読めるように新約聖書・聖書全体に記されているのです。
 ですから、聖望キリスト教会は御言葉を教える教会であり、学ぶ教会なのです。

そしてこの驚くべき約束を「見よ」。
そうです、マタイの福音書の味読を通して、聖望キリスト教会の会堂建設越えて広がる日々と人々への確かな、確かな約束として体得するのです。マタイの福音書味読、感謝ではありませんか。

(2)マルコを一つの切り口から
 マルコは、主イエスの姿を、同じことば・「先頭を行く」を二箇所で用い印象的に描いています

①マルコ10章32節
「さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。」
マルコの福音書のほぼ真ん中において、十字架について予告するだけでなく、
先頭を進む主イエスの姿をマルコは鮮やかに描いています。福音書を読む私たちの心と
生活・生涯に聖霊ご自身の御業により刻印するためにです。
マルコを読むとは、そう言うことなのです。

②マルコ16章7節
「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。」
主イエスの十字架の死と墓の現実に途方にくれている弟子たちに、驚くべき約束また励ましの宣言がなされます。
マルコの福音書の味読を通して、十字架に向かい先頭に立ち、私たちより先に私たちのガリラヤへ行かれる主イエスの姿を聖霊ご自身に信頼しながら心と生活・生涯に刻み、私たちのガリラヤに留まり、そこで生かされるのです。

[Ⅲ] ルカとヨハネ
(1) ルカの人柄

①ルカ1章4節
「それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」
ルカの福音書、そして聖書全体は、神の恵みの事実についての証言です。
事実をルカは書き、事実として私たちは読み受けとるのです。

使徒1章1節〜2節
「テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。」

「前の書」とは、ルカの福音書を指すことは明らかです。「イエスが行ない始め、
教え始められたすべてのこと」を一枚一枚美しい画面の連続のように描いています。
続編・使徒の働きでは、使徒の働き1章8節、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨
れるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」との、主イエスの約束が成就して
いく経緯・事実を証言しています。
 そうです。エルサレムユダヤとサマリヤの全土だけではないのです。
ローマの囚人、いやキリストの囚人(ピレモン9節)パウロを中心に、「こうして、私たちはローマに到着した」(使徒28章14節)と報じられているように、事実地の果て・ローマにまで、キリストの約束は成就。あくまでも事実の証言です
 
ルカの福音書使徒の働きは、決して切り離してはならない。このかなり長編の両方を、テオピロのために(ルカ1章3節、使徒1章1節)、ルカは書ききったのです。この一人の人のためなら、どんなことでもいとわず労する、ルカはそういう人柄なのです。
こんな人柄のルカが精魂込めて書いたものを、一度、この私に対し個人的に書き送られた長い手紙として一気読みをされたし!

(2) ヨハネは個々人を浮き彫り
 ヨハネ福音書全体をとして、父なる神との関係で、主イエスご自身の姿をヨハネは浮き彫りにしています。しかしそれだけではありません。たとえばトマスのように、登場する人物個々人を印象深く浮き彫りにしています

ヨハネ1章14節
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
驚くべき、本当に驚くべき事実。「恵みの上にさらに恵み」(ヨハネ1章16節)の事実。ヨハネは、この事実を描いているのです(ヨハネ21章31節)。

ヨハネ20章28〜29節
「トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神。』イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」

ペテロの場合(「私もひとりの人間です」、使徒10章25,26節)やパウロの場合(「私たちも皆さんと同じ人間です」、使徒14章15節)と、主イエスの応答は鮮やかに区別されます。
自分自身を神と自覚し、他の人々に私は神だと宣言しているお方をヨハネは浮き彫りにしています。

どのようにして「見ずに信じる」ことが出来るのか。ヨハネを含む四福音書、そして聖書全体を聖霊の導きと助けを受けて味読し続けることによって。この「幸い」の道を、私たちは聖望キリスト教会の一員として生活・生涯をかけて一日一日歩み進むのです。

[Ⅳ] 集中と展開 ヘブル12章2節
福音書を読み続けるのは、この一事のためです。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」

 四福音書を読み続けることに集中する時、キリストともに死に、キリストともに生きる、聖望キリスト教会の一員としての生活と生涯(ローマ6章3―8節)が必ず展開して行くのです。そしてその展開は教会の枠を越え社会の現実へと溢れ染み入るのです。
 
[3]時と場所の制約に耐え、時空を越えるキリスト信仰の旅
(1)4月の歩み 
4月2日に退院できた際、祈り、電話、手紙、メール、面談などを用いて、私たち二人の日常生活の中で、みことばに仕えて行く思いを新たにしました。

 実際退院後は、不自由な左手・指、杖を用いての3階のアパートの上り下りなど思わぬことでも日々弱さを経験しています。しかし同時に恵み深い支えを時々に味わっております。
 昨12月18日入院直後、自らを丸太のようとの自己認識を持ち、その中で笑いの恵みを経験していました。今は、自らの存在をカタツムリと感じながら、ゆっくりゆっくりみことばに仕えて行く喜びに満たされています、喜びカタツムリとして。

 今までと違い、旅と言えば4月17日、18日の聖望キリスト教会訪問に限られています。
しかしこの場所に留まりながら、地域を越える主にある交わりは、たとえば『恵みから恵みへ』97のやり取りなどにより、なおも展開しております、感謝。

 『恵みから恵みへ』97へ電話や手紙で多くの応答を頂きました。ここでは、メールによる応答三通を紹介します。

 ネパールの鳥羽宣教師から。1970年に始まる青梅キリスト教会時代日本ウィックリフ聖書翻訳協会の働きに関わるようになって以来続く、主イエスにある交わりです。

「宮村先生、君代さん、
メールの中の97号をこのネパールで拝受いたし読ませていただきました。
大変な中で主にあり喜んでおられる姿を見てうれしく思いました。

インドの伝道者で聖人とも呼ばれるサンダー シングはいろいろな苦しみをキリストの苦しみになぞらえて主をあがめておりました。ネパールに百年前に来たときは今では想像も出来ないような迫害を受けました。牢に入れられ、蛇やヒルを投げ込まれ耐えられない苦痛を覚えたときキリストを心に思い平安を経験したと書いています。

わたしたちはこの国に来て40年を終えようやく、カリン語の聖書が出来上がるところです。まだすべきことは山ほどあります。健康にここみられていますが、72歳の弱い体を主に奉げつつ、毎日戦っています。水や電気がない中何とか生きるネパールの人々と共に。祈りにお互い覚えあいましょう。

鳥羽季義」

同じく宣教師、ご夫妻でタイおいて宣教活動を続ける松下宣教師のメール。東京キリスト教短大専攻科で松下神学生の卒論指導を担当、それが切っ掛けとなり深い交わりが続いています。

「宮村武夫先生、君代先生
主の御名をあがめます。
宮村先生ご夫妻、お便りを下さり、感謝します。いつも、タイ宣教や私共家族を覚えて、お祈りくださり、ありがとうございます。

宮村先生、お体の具合は、いかがでしょうか。本日、先生からお便りにより、ご病気のことを伺いました。今日本にいる家内にも伝え、祈りました。「恵みから恵みへ97号」も興味深く読ませていただきました。私共も、恵みを分けていただきました。私たち夫婦とも、最近健康状態のことで祈り、対処すべきことがあり、今も祈っています。

先生のお便りの中で、「舌の訓練をされた」ことが最も興味深く思えました。タイに渡ってから、新しい言語の習得で今まで使ったことのない舌の動き、唇、顔の筋肉のトレーニングをした日々を思い起こしました。タイ語のメッセージや証しはおろか、「神様(phrajao)」の発音さえ正しくできず、一晩中発音し続けたことを思い出しました。今も、礼拝前には、1週間聖書箇所を何度も声を出して、朗読しています。そして、聖書のことば、賛美の歌詞に対して自然に感情がわき出てくることを経験します。

私共の近況ですが、母は昨年受洗礼し、12月からタイで2ヵ月半病気もなく、過ごすことができました。今は日本にいて、ビザを取得して、5月末に再びタイに来れるようにと、準備しています。病気療養中の娘が4月から大阪で大学生生活を再開しています。長男は、3月で福岡の大学を卒業し、今大阪でともに過ごしています。紀美子は、今日本で、子供たちの励ましと、母の世話をしています。
また、日本でもテレビ等で報道されている、反政府団体による抗議デモ、集会は今も続いており、国は真っ二つに別れたままです。しかし、私たちの教会や居住地は、バンコク中心地から離れ、全く平常通りの生活、宣教活動ができています。

今週はタイ正月でした。   
開拓中の教会は、タイ人の働き人を求めています。また、教会を支えていく方々を祈っています。
毎週の野外子供集会には、子供たちを連れた家族がたくさん集い、「青空保育」のようです。親たちの多くが、今子供たちをどう育てたらよいか、知りたがっています。一生懸命、主を賛美する子供たち、聖書の話しを聞き、嬉しそうに参加している子供たちの姿、歌声が、団地の方々への良い証しとなっています。

宮村先生ご夫妻の上に、神様の豊かな励ましと慰めといやしがありますように。

2010年4月16日   タイ宣教師  松下展久、紀美子」

 最後に、今度は、アメリカ人の宣教師Frank Severn・フランク・セバンから。
1963年に留学した時、学生寮での私の同室者・リッチ・ワイゼンバッハとフランクは、中学以来の親友でした。
同年のクリスマス、リッチのフィラデルフィアにある実家に招かれ、そこで新婚のセバンご夫妻と出会ったのです。
 その後、セバンご夫妻は、センド国際宣教団の宣教師として長年フイリッピンで活躍。
やがてフランクは、センド国際宣教団の二代目の国際理事長に。 私が、センドの日本での働きの実である日本新約教団の議長になってからは、公的協力関係も深めました。
 理事長職を退いてからは、ご夫妻はより自由な立場で宣教活動を継続しています。
 長年の主にある僕仲間(黙示録22章8,9節)の交わりさらに今後もさらに進展して行くと確信します、感謝。

I thank God you are recovering well from your stroke. May the Lord give you strength for each day. I am glad to hear that your sermons and also your many good lectures are now being put in book form. I pray this project will be completed and will be a great blessing to the Japanese Church.

This note finds Jane and I well. We just returned from a 3 week trip to Asia. I was able to participate in a special event in the Philippines which marked SEND International's transition from a receiving Area to a SENDing Area in the majority low-land Philippines. We still have work among the Muslims in the Southern Philippines. We will still have a few missionaries working with the Philippine Sending Council under the able leadership of Rev. James Aberin. From the Philippines we went to Taiwan where I spoke at the Annual Conference of our missionaries in Taiwan. Taiwan is our most diverse mission team with missionaries coming from Singapore, Hong Kong, Canada, USA, Germany, Switzerland, Philippines and North India. We also have two couples whom we sponser who are from South Africa. We had a wonderful time of fellowship.

From Taiwan we flew to Hawaii to participate in the wedding of my nephew. He asked if I would perform the wedding. It was a delight. We were able to stay for a few days of vacation in Hawaii before returning home.

May you know the strength of the Lord.

In His Service,
Frank Severn」


(2)5月、6月の歩み
 5月は、沖縄に留まり、この地で福音宣教の機会をと祈っていきます。
石川福音教会の重元先生が、全責任を担って、私たちの小さなアパートで、「沖縄で聖書を、聖書で沖縄」の聖書の味わいの集いを計画、実行しようとしていてくれます。
夜のコースは午後8時、『愛の業としての説教』を用いて。
 昼のコースは午前10時、「聖書味読の手引き」(創世記、詩篇、四福音書、ローマ)
両コースとも2箇月に1度・木曜日に開き5回・案内希望の方は、連絡ください。

6月の第一主日の夜は、例年のように、末弟三郎牧師が牧会する足立キリスト教会で持つ親族の集会に参加予定。聖公会で受洗した父・パウロ泰二を記念して長年親族伝道を願い継続しています。その関係で主日朝は、足立の礼拝に出席。

また6月7日(月)は、私の発症で延期されていた著作集出版記念会です。