二つの課題『礼拝の生活』再考その73

1972年1月23日
『礼拝の生活』73号
 
(巻頭言)「二つの課題―真の教会として生きるために―」 

 現代日本に、世の光・地の塩として生かされている教会が、常に直面している二つの課題があります。

 第一の課題は、教会の存在の基盤である聖書が根本的に問う主題が、教会と世界の根源的な課題である事実を、この時代の言葉で宣言し続けることです。
つまり聖書全体が宣言しているように、唯一の・生ける・真の神を父と呼び、主として従うことを、言葉と生活全体を通し証しする、この一事が教会に与えられている課題です。
教会が何を語り何をなそうとも、聖書の中心であるこの宣言を提示し続けないなら、教会は本来あるべき姿としてはこの世に生きていないのです。
さらにこの第一の課題を果たしていく過程において、自ら問われる者として苦悩しつつ、根源的問いに肉迫していく以外の道は、教会に与えられていないと知るべきです。
 
第二の課題は、現実の社会の問いが教会の自らの問いである側面です。世から分離された教会としてではなく、まさに世に生かされた教会として生きる使命を与えられています。
この課題について考えるとき、教会は現実の社会の問いについて考えることをしていないばかりか、現実の社会の問いを真に理解することもしていないと自らの姿を認めるところから出発しなければならないのが実情です。
第二の課題を果たしていく過程で、初めて第一の課題を現実的に果たしていくわけです。ですから、二つの課題は、深いところで一つなのです。

1972年1月の時点で、上記のことを思索し表現していたことを知りえたのは、今回の『礼拝の生活』再考の恵みの一つです。
 1972年以後の私の歩みは、青梅や首里の地域教会の内部に留まり、神学校教育や執筆活動を含めあらゆる営みを継続してきました。
 その中で、第一の課題については、いささかの実を結ぶことを許されたと感謝します。

 しかし第二の課題については、1972年1月の時点での理解から退歩してしまったのでないか恐れます。
 確かに1978年4月から8年間、日本女子大英文科の授業担当は、第二の課題に直面するため貴重な経験でした。
 また沖縄での25年間の首里福音教会の牧会も、沖縄の歴史と社会を意識し続けての営みでした。しかし自分の歩みにおいて、第一の課題に対して第二の課題への迫りが不十分であったことを覚えます。

 その中で思いがけない経過で首里福音教会から退き、また脳梗塞発症を契機として、リハビリの場に身を置くことを通して、第二の課題に直面していると判断します。

長年のキリストにある同志・湊晶子先生の以下の励ましを身に受けて、
「これからも日本の青年たちのために、洞窟の中で神学を語るのではなく、世の真っただ中に毅然として共に立ち、傷だらけになりつつも、天に迎えて頂けるその日まで、『存在の喜びを』、『”to be” の喜び』を 、宣べ伝え続け、良き模範を残して下さると期待している。」