「教会の一致をめぐって−課題は歴史的自覚−」

★「福音主義とは何か」シリーズの2回目に書いたものは、
「教会の一致をめぐって−課題は歴史的自覚−」です。
第1回目が聖書についてであり、第二回目が教会についてなのです。

「教会の一致をめぐって−課題は歴史的自覚−」                         
 教会の一致という課題に、原理的に、また具体的に取り組む場合、教会を教会とするものは一体何かという一点を追求し続ける必要があります。
 しかし、ここでは、教会一致のセンス、洞察がどこから生まれてくるかにだけに問題を限定して、少し考えてみたいと思います。
 
 まず何より重視すべきは、旧新約聖書を通して、教会一致のセンスが与えられる事実です。背景となる時代と場所の相違にもかかわらず、唯一の・生ける・真の神と神の民イスラエルとの、また新しいイスラエルであるキリストの体としての教会との関係(神と神の民との恵みの関係)こそ、終始一貫した聖書の中心テーマです。
ですから、それぞれの時代や場所の豊かな多様性と共に、時と場所を超越した神の民としての統一・一致が聖書の中にはっきりと姿を現わしています。
 
 この神の民としての一体性には、少なくとも二面があります。
(1)まず神を父と呼ぶ愛を基とした兄弟愛に生きるものとしての一致です。

(2)次に、神を主と呼ぶ使命を基とした僕仲間(黙示録22・9)としての一致です。

 以上のような二面を持つ神の民の一体性こそ、教会一致のセンスの最も根元的な源です。旧新約聖書の豊かな背景の中で、ヨハネ福音書17章全体に示されている、私たちの大祭司主イエスの祈りの言葉の深さを感じ取りたいものです。
 さらに、エペソ人への手紙4章13節の宣言などに示されている、常に成長、発達し続ける生けるキリストの生ける体の教会の現在と未来を貫く真の姿を見定める必要があります。
 
 次に教会一致の洞察のために大切なのは、二千年の歴史を通して、教会が聖書をどのように告白し、どのように戦いをなし続けてきたかの学び(教会史、特に信条の学び)を通して、私たちが自らの歴史的位置を自覚する事です。
 信条の学びを通して、それぞれの教団・教派が、単に数年の、また、数十年の歴史を持つばかりでなく、キリストの体である全教会の歴史を背景として生かされていると強い確信を与えられます。キリストの体なる教会は、あらゆる時代のあらゆる場所において、その現実の姿を現わしてきました、また現わしています。
そして二十世紀の後半、この日本の地で、それぞれの群れを通しても、キリストの体・教会の豊かさの一部分が現わされています。
 このように歴史を持ち、歴史の中に生かされているとの歴史的自覚こそ、教会一致の課題に私たちを目覚めさすものです。
 
 さらに歴史という時、それは単に過去を意味するだけではありません。諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられるキリスト(Ⅰテモテ2章16節)の体としての教会は、苦難を通して、望みに生かされつつ、常に成長し発展し続けます。
 それ故、教会一致に目覚めさせられた私たちの目は、常に、未来にまた世界に向けられるのです
 
(3)第三に、教会一致のセンスを与えるものは、現時点に生かされている事実の自覚です。この時代に生かされている者として、共通の答えによる一致ばかりでなく、共通の問題意識による実質的な一致が問題とされてきます。過去の一時点において必然的であった故に生まれた教団教派の枠の中にだけ閉じこもって答えを繰り返すのでなく、どのような時代的問題意識に立ちその答えをなすかが、より重要な教会の一致のセンスの源となってきます。
 
狭義の福音主義と呼ばれる立場に立つ者の現在と将来は、教会の一致が単に方策として取り上げられる事ばかりでなく、教会の一致のセンスと洞察が課題となることによって、さらに豊かなものにされていくと言えます。