冬の期間が必要『礼拝の生活』再考その67

1971年12月12日
『礼拝の生活』67

(巻頭言)「冬の期間をいかに生きるか」
 今日、私たちの日常生活の中から、新鮮な季節感が次第に失われつつあることは、誰も否定できない事実です。

 たとえば私たちの食生活一つとってみても、一昔前には考えられないような有様が展開しています。私たちの食卓は、季節の移り変わりをもはや反映していないのです。確かに身近なところから季節感が失われています。

 先週の主日礼拝、教会堂の花なども典型的な実例ではないです。
12月だというのに、美しいユリとカーネーションの組み合わせです。或る姉妹が話しておられたように、復活祭と母の日の花が、12月に咲きほこっている、なにか面白い事態が私たちの周囲には、起こっているのです。
 
 しかしこうした中にあって、寒さは、日々きびしさを増しています。
やはり冬なのです。私たちの食卓や温室栽培の草花などによっては少しも左右されることなく、きびしい冬の季節なのです。
 年ごとに新しく発表される暖房器具は、冬のきびしさを何よりも証拠だてているではありませんか。どれ程過ごしやすくなったかのように見えても、依然として冬の季節はやってくるのです。

 この冬を単に外気の寒さとして身に感じるだけではなく、教会全体の課題として受け止めることが、今私たちに求められています。
 私たちキリストの教会として生かされている者は、一見冬の厳しさを身に感じないような環境の中で生活することがゆるされています。漠然とした習慣的な歩みを続ける限り、私たちはキリスト者・教会として存在することを、周囲の社会から黙認されています。幸いな時代と言うべきです。
 
 しかし、これは表面的な現象に過ぎません。現実は、まさに、私たちにとって、冬なのです。私たちが、真に教会の成長を考えるなら、自らの中に冬の季節をはっきり意識し、これを喜んで迎える覚悟がなければなりません。主イエス・キリストの恵みの中に生かされている者として、冬の寒さを身に感じることです。
 
 現代にキリスト者・キリストの教会として生きることは、まさに冬の期間を生きることです。今こそ、私たちは問われています。冬の期間を生きる者としての姿勢が備えられているかどうかを。
 
 教会の庭のブドウの木のように、すべてを失って死にきったように見えて、その実、生命の本質に徹していく姿勢が教会の中に体現されていくよう求められます。

 教会とはギリギリのところ何であるのか。教会にとって、あってもなくてもどちらでもよい外面的な飾りが何であるのか。
私たちが見るかげもなく死んだように見えても、私たちの中に流れている生命は何なのか。その問いを問い続け、見きわめつつ、無力さに徹し、ありのままに徹して、死んだような自らをありのままに認めて、しかもそこに流れているキリストの生命を真に自覚する。これが冬の期間を生きる私たちの課題なのです。
葉が落ちることを恐れずに、外気に身をさらけ出すことです。そのときに、真の生命を自覚することです。私たちキリストの教会は、このような冬の期間をいかに生きるかとの重大な課題を与えられています。
 キリストの教会が何によって生かされているのか自ら深く自覚するために、冬の期間が必要なのでしょう。

12月から1月、種々の特別集会が続く中で冬のきびしさを真に味わうべきです。

その後、1986年からの沖縄での25年間の生活。気候的には冬の厳しさを、ほとんど感じられない中で、しかも沖縄の冬をしっかり実感できるようになったのは、小さくない恵みでした。
あってもなくてもよいものをあれもこれも失って死にきったように見える中で、キリストの命の本質に徹して歩む諸所各所の仲間との絆、感謝。