「愛の根拠と力」『礼拝の生活』再考62

1971年10月31日
『礼拝の生活』63号

(巻頭言)「愛の根拠と力―11月7日(日)を前に―」
 
 
信仰、希望に続いて、聖書が宣言している「愛」の事実に聞き入りたいと願っています。
しかし、「愛」という言葉を口に出したり耳にしたりするのが、誠に空しく感じられる時代に私たちは生かされています。
「愛」と聞いたり、読んだりしても、その意味について何か考える前に、言葉の無力さにお互いに気づいて、変に白けきってしまいます。
現に今、「愛の根拠と力」との表題を見て、そのように感じておられるのではないでしょうか。一切の美しげな言葉の無力さが現実の前にあらわにさらけだされている現代、「愛」など、無力さの筆頭です。
 
こうした状況の中で、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(Ⅰコリント13章13節)と聖書の素直な宣言に耳を傾けるのです。私たちの先入観から開放されながら。
 
(一)愛の根拠 
では、聖書が愛について、これほどまではっきりと宣言している根拠はどこにあるのでしょうか。それは、
 「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5章8節)との指摘の中に明らかにされています。
聖書の宣言している愛は、実に一つの歴史的事実―イエス・キリストの十字架上での死―によって頂点に達した神の人への愛に基づいているのです。愛されるに値しないもの、神に敵対し反逆する人への一方的な神の愛の現われであるイエス・キリストの十字架、これが聖書が宣言している神の愛の根拠です。

愛の成り立つの不可能なところに成り立った愛の事実。この神から人への愛によってこそ、人はあるべき本来の姿に立返ることができるのです。
人について真に知るためには、どうしても神の人への愛を知らねばならない。
そのためには、聖書が神について、また人について宣べ伝えている事実をじっくり聞き入る必要があるのです。
 
(二)神と万物 
聖書が神について宣べ伝えている根本は、唯一の、生ける、真の神が天と地を創造された神の創造の事実です。
聖書の冒頭、創世記1章1節には、
 「初めに、神が天と地を創造した」
 と宣言されています。ですから、すべてのものは、唯一の、生ける、真の神から切り離されて、それ自体で見られると、結局無意味なもの、死んだものになってしまうわけです。このような神と万物の関係は、
 「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がありますように」(ローマ11:36)
との雄大なスケールの宣言に極ます。
万物の意味は、実に、唯一の生ける、真の神ご自身の中に見出されます。
さらに、神は単に存在される方というのではなく、父なる神、子なる神、聖霊なる神として、愛の交わりの中に満ち満ちておられる人格的な、無限の神なのです。
この奥義を、聖書は、
 「神は愛なり」(Ⅰヨハネ4:8)
 と、実に端的に言い切っています。
万物は、人格的な神の愛との関係において位置づけられているのです。

(三)神と人 
では、万物の中で、人はどのような特別な位置を与えられているのでしょうか。
聖書は
 「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに創造し、男と女とに彼らを想像された。」(創世記1:27)
 と全く驚くべき宣言をなしています。
神のかたちに創造された姿こそ、人本来の姿なのです。
ですから、人は単なる動物でも、ましてや機械でもありません。全存在の唯一の源、すべてのものに意味を与える唯一の源なる愛の神のかたちに、人は創造されたのです。驚くべき人の姿。神の愛を受け、神を愛する神との人格的な交わりに呼び出された人間・私。
 しかもこのような尊いものとして創造された人が、神に反逆することによって堕落し、罪人となったと聖書は教えています。
それでも人は動物や、機械になることなく、「堕落した」人として存在し続けることをゆるされたのです。
 神のかたちに創造された人。しかも、神に反逆した人。その反逆し堕落した人に対する神の一方的な愛。神ご自身が苦しむことによって示された神の愛。この神の愛の現われこそ、イエス・キリストの十字架の意味なのです。この十字架に現わされた神の一方的な愛を通して出なければ、神に愛され、神を愛する者として生きる人の本来の姿は、理解されも実現もされないのです。
 こうして、あの宗教改革者が明確に指摘してくれたように、神を知ることによってのみ、私たちは、初めて人を知ることができるのです。また人を知ることを通して、神を知るのです。

(四)愛の力 
愛の力。
そうです。十字架において現わされた神の愛を身に受けた使徒パウロは、
 「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても圧倒的な勝利者となるのです。私は恒確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:38〜38)
 と言い切っています。
 神は信じることも、希望することもありません。
しかし神は愛されます。
ですから、神に愛される者として、愛することによって、人は、神のかたちに創造された本来の姿を一番よく現わすことができるのです。
 
では、愛の力は、現実にどのように現われてくるのでしょうか。以下のコリント人への手紙第一13章の部分を何度も読み返すことが大切です。
 「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばず真理を喜びます。すべてを信じすべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(Ⅰコリント13:4−7)
 このような愛の働きは、決してきれいごと(「見かけ・口先だけでは、いちおう非難されないように体裁よくしてある物事」ではすみません。
なぜなら、神の愛の現われであるイエス・キリストの十字架が決してきれいごとではなかったのですから。
 ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中で、ゾシマ長老は、アリューシャが信仰と愛とによって、この醜悪な世界を浄化し、美化していこうと目指す時、
 「然るに実行の愛に至っては、何のことはない労働と忍耐じゃ」
 と語っています。
 十字架という神の全く具体的な卑下によって、神の愛を示された者として、具体的な労働と忍耐によって、各自の生かされた場所で実行の愛を具体化していくことを私たちは期待されています。神の愛を賛美しながら、与えられた生涯を、他の人々との人格的交わりを通して生きぬく、これが私たちに求められている生き方です。手と足をもって、具体的に生きることです。愛に生きるとは。

40年前も、その前も。
40年後の今も、これからも。
ロ−マ5章8節
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」