『主は、・・・ヨナは、・・・』(2)
2012年7月22日
聖望キリスト教会 主日礼拝
ヨナ書1章17−2章10節(2)
『主は、・・・ヨナは、・・・』(2)
今、ここに現臨なさる、御父、御子、御霊、生ける三位一体の神の御名を讃美します。
[1]序
(1)ヨナ書1章17節から2章10節の2回目として、今朝は、短い箇所です、
聖霊ご自身の導きを求め、2章8−10節に焦点を合わせて心を開き味わいます。
(2)短い箇所をさらに二分して、掘り下げ心に刻みます。
①8、9節に見るヨナの祈りを、9節文頭の「しかし」に注意を払いながら、
偶像礼拝者とヨナの対比。祈りの頂点として、「救いは主のものです」(9節)。
②10節、主なる神の御業、
「【主】は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた」。
[2]「しかし、私は」、2章8節、9節
(1)「むなしい偶像に心を留める者は、
自分への恵みを捨てます。」
キリスト教系偶像礼拝の危険性はないか。
「はじめに神・・・」の神の代わりに位置を占めるもの、たとえもともとよきものであっても、それが偶像となる。聖書、教会の歴史を貫き、その意味での偶像礼拝との戦い・宗教改革の絶えざる営み。1章に見るヨナ自身の姿を含めての深い直視、鋭い直言です。
(2)「しかし、私は、感謝の声をあげて、
あなたにいけにえをささげ、
私の誓いを果たしましょう。」
「しかし、私は」、強調。個人的礼拝においても公同の礼拝においても、明確な自己否定・罪の告白と信仰告白、その営みへの導きが、恵みなのです。
祈りにおける自己否定を通しての真の個の確立。くっきりヨナの存在が浮かび上がります。ヨナの存在感です。
参照マタイ16章15節、「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』」
聖歌733番1節。
「ゲッセマネにふす主をおもいなば、
うきもなやみもなどいとうべき、
おのれをすてて きみにしたがわん」
(3)「救いは主のものです。」
この1 年、『聖書を貫く二本の柱』の主題で宣教を幾つかの教会でして来ました。
①「はじめに神」
②「しかし神」、この二本の柱です。
そうです。根源的に、「救いは主のものです。」
[3]主なる神の御業、2章10節
(1)「【主】は、魚に命じ」
魚だけでなく、とうごまも虫(4章6,7節)も、さらに数多くの家畜(4章11節)も。
(2)「ヨナを陸地に吐き出させた」
この時のヨナについて、先回紹介した服部嘉明先生は、
「ヨナは、瀕死の状態ですべてを失って波打ち際に打ち上げられたことをどんな思いで晩年になって回顧したでしょうか」(服部嘉明、『ニネベか?タルシシュか?』46頁)と問いかけています。
そうです。そのようなヨナを、主はニネベに派遣なさったのです(3章2節)。
新約聖書でも、同様な例として、ダマスコ途上のパウロの姿を見ます。
ダマスコへ向かう一行の中心として、いわば威風堂々と進むパウロ。
復活の主イエスに出会うや一転して、目は見えず、人々に手を引かれてダマスコへの道を
ヨチヨチたどるパウロ。そのパウロを用いて、主は福音宣教を進めるのです。
[4]集中と展開
(1)集中
「救いは主のものです」(9節)。
ヨナの祈りの頂点です。祈りを通して徹底的な自己否定。
絶えざる宗教改革の道。
一冊の本、紹介。
木下是雄著、『理科系の作文技術』中公新書624、
「思う」ではなく、実験により実証された「事実」の明示。
私たちも、聖書が宣言し明示している恵みの事実の確認と明確な提示。
(2)展開
ヨナの祈りへの共鳴の驚くべき深まりと広まり。
主日礼拝の、被造物全体への広がりに心満たされて。
地域教会の主日礼拝の公同性を見くびられても、見くびってもならない。
①詩篇100篇1、2節
「全地よ。【主】に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって【主】に仕えよ。
喜び歌いつつ御前に来たれ。」
②詩篇150篇1節
「1節ハレルヤ。
神の聖所で、
神をほめたたえよ。
御 力の大空で、
神をほめたたえよ。」
③ローマ8章18−25節
「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、
服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、
神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
私たちは、この望みによって救われているのです。
目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」