『そんな訳で主の祈り』

『そんな訳で主の祈り』

 IJさんとの一風変わった共なる時、先回は私の体調が駄目で、今日の午後は久しぶり。
 6月14日付けのメールで、こんな連絡を受けていました。
「・・・テーマですが、『主の祈り』についてお話しをしていただけないでしょうか?
明治学院の高校・大学を行きながら『主の祈り』をはじめて意識したのは、聖望キリスト教会に行くようになってからです。

最初は、意味がわからなかったのですが、意味がわからなくても礼拝に参加している人たちと同じように声を出して読め(祈れ)ば、そのうちにわかるだろう・・と思っていました。

今はどうか?というと、本当に意味がわかっているのか?と言われれば
本当の意味はわかっていない・・と思います。
そこで、『主の祈り』への理解を深めたいと思います。
よろしくお願いします。」

 そんな訳で主の祈り

 そこで、以下のレジメに基づいて自習してもらい。次に直接会った際、レジメを一応の手がかりとして、足は不自由でも、話しが飛ぶのはちょっと得意、自由自在の話し合いをしたのです。
レジメです。

『主の祈りを祈る,私たちの幸い』
[1]序
(1)主の祈りは,マタイの福音書においては,5ー7章,山上の垂訓(すいくん)と呼ばれる,一つのまとまりを持つ箇所に(参照ルカ11章2ー4節).5章1,2節で背景を示し,7章28ー8章1節で人々の応答を描く枠組みの中で,
5章3ー13節は序論,
7章13ー27節は結論,
6章7ー15節の主の祈りは中心(ウルリヒ・ルツ.『マタイによる福音書』(1ー7章),262頁以下).

(2)マタイ5章1ー16節.
 主の祈りを味わう一歩として,マタイ5章1ー16節を.1,2節,主イエスが語りかけた対象,弟子と彼らを取り巻くようにしている群衆と二重.
主イエスの宣教の主題は,「悔い改めなさい.天の御国が近づいたから」(4章12節),
「会堂で教え,御国の福音を宣べ伝え」(4章23節),ここでは,その内容を提示(参照28章20節).

[2]「あなたがたは幸いです」,1ー11節
(1)1ー10節,「幸福(さいわい)なるかな」(文語訳)
福音は,本来喜びのおとずれ,参照マタイ13章44ー46節.
幸福(さいわい)を軽視しているのではない.まして無視しているのではない.
問題は,本来の幸福(さいわい)は,何か.
たとえば迫害との関係(11,12,44,45節).
幸福(さいわい)の一つとして,5節に指摘されている場合.
「さいわいなのはくだかれた人々,
彼らは地を継ごうから」(前田訳) 

(2)11節,「わたし・・・あなた」
11節を特に注意.主イエスは,単に一般論として幸福(さいわい)について語っているのでない.
参照マタイ16章13,14節と15節の関係.
「人々は人の子をだれだと言っていますか」
「あなたがたは,わたしをだれだと言いますか」

中心は,主イエスと私たちの関係.
5章1,2節,主イエスが語りかけなさっているのは,弟子と群衆に.
弟子については,4章22節,「彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った」.
群衆については,25節,「およびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスに従った」            

[3]「喜びなさい」,12ー16節
「喜びなさい.喜びおどりなさい」,強調.
与えられた恵みの立場の自覚を主イエスは訴えておられます. 
(1)「あなたがたは,地の塩です」
警告.その可能性があるか,すでにそうなっている現実.
ここで直接問題になっている塩気を失っているとは,喜びを失っている状態.

(2)「あなたがたは,世界の光です」
使命.16節,「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」るとは,
直接的には,持ち場,立場で,主イエスにあって喜ぶ者として生かされること。
「人々があなたがたの良い行ないを見て」と言われている良い行ないとは,
持ち場,立場で主イエスにある喜びに満たされてなすことごと.
参照1ペテロ2章20節,3章17節,「善を行なう」
特別な人の特別な行為だけではなく,平凡な者の日常的な行為.
その日々の営みを,幸いな者,喜びに満たされた者,つまり,主イエスに呼び出され,主イエスに従う者としてなす.
これこそ,「天におられる父なる神の子とされ,「アバ,父よ」(ローマ8章15節,ガラテヤ4章4,5節)と呼ぶ恵みに入れられた者の生活・生涯.
その道を歩むためには,父なる神への祈り(主の祈り)が不可欠.

[4]結び
福音とは,喜びのおとずれ。
私たちキリスト者・教会は,この福音を聞き生かされている.群れとしても,個人としても幸福(さいわい)は,人間・わたしとして神を知り,神を喜ぶ者としての日々.何もできないように思われても,この一点を.
 
また何事かをなしえていると思っても,この一点を欠いたとしたら.」

 以上、本来の人間、人間らしい人間・私らしい私としての(神を知る)喜びに焦点を絞りつつ主の祈りを受け止める準備を重ねたのです。

 江東区大島7丁目出身のJさんと、門前仲町を特に意識して祈るひと時、何と言っても恵みです。

 IJさんから、7月9日付けの以下のメールが届きました。

「こんばんは。
来週も主の祈りをテーマにお願いします。マタイ5〜7章を通読したこと。そして何より主の祈りについて考えることができたので、私が主の祈りに対して最初に抱いた「違和感」の理由がわかったような気がします。

『主の祈り』について、感じたことなど簡単にまとめてみました。

「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
(国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。)」

主の祈りは、マタイ6章8、9節「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。だから、こう祈りなさい」とあることから、
 主イエスが、私たち人間に与えた言わば祈りの「定型文」「決まり文句」だと思います。

 私の場合、神様に感謝しつつも、結局は「神様!私を助けてください!と自分中心の祈りばかり。
しかし主イエスは「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」とわざわざおっしゃっています。
つまり主イエスは「父なる神は、お前たちのことは全てお見通しだ!だから自分のことを祈るよりも、安心して、こう祈るだけで良いのだ!」と私たちに教えた・・・そう考えると「主の祈り」は、主イエスが私たち人間に求めた、何よりも大切な祈りであり、また私たち人間にとっては、最大の喜びにつながる魔法の祈りと思われます。

 もし「主の祈り」が、主イエスが私たち人間に求めた何よりも大切な祈りであり、また私たち人間にとっては、最大の喜びにつながる魔法の祈りだとすれば、この主の祈りは心から想い、真剣に祈る必要があります。自分自身のことのように、あるいは自分の大切な人のことを想うように祈らなければならないとなると、主の祈りを深く理解しなければならないわけです。

 と言うことで、細かい質問です。
①「御名」最初は「イエス」のことと思っていましたが、ネットで調べたところ「ヤハウェ」とか「エホバ」とのことですが・・・。

②「御国」
神様の御心が行われるような地上における理想の国?

③「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです」
 この部分は、聖書でも(・・・)になっていますが、全体の流れからすると少し変な感じがするのは、なぜでしょうか? 
 この部分が入ると、既に栄えているどこかの「国」の王様が『今ある国・国の力・国の繁栄は、神様のお導きによるものです。そしてこの繁栄は、神様のものです。だから、祈ります。』的な”繁栄を感謝する祈り”的な印象をもってしまいます。
私が、なぜ最初に主の祈りの意味が理解できない・・正直言って違和感を覚えた理由は、この(・・・)部分があったからです。(・・・)部分前までは、明らかに私たち弱者の祈りですが、(・・・)部分があると、いきなり他人・強者・成功者のお祈りみたいな感覚になってしまうのは私だけでしょうか?
最古の写本では(・・・)部分は欠けているそうですが、残念ながら、人間の世界では国が繁栄をしても、その底辺には必ず不幸な・理不尽な想いをしている一般庶民、個人が必ずいるものです。最も祝福されるべき人たちにとって、この(・・・)部分は理解に苦しむと思うのですが・・・。
 いや、私のようにキリスト教・主の祈りへの理解が足りない者は、私と同じく非常に突き放される・・・「あなたには関係ない」的な、閉鎖的な印象を感じる人も少なくないはずです。
一体「国と力と栄え・・・」はどのような意味なのでしょうか?

※私が神様を信じる前、最初に主の祈りを聞いた時の印象を正直に話しますと、「国?力?繁栄?・・・クリスチャンは世界をキリスト教で支配しようとしている。世界の戦争の多くは宗教戦争。多くのクリスチャンは、神様のために国・力・繁栄を力ずくでも得ようとしている。イスラム教の過激な考え方と同じじゃないか!と誤解されてもおかしくない・・」と感じました。だから最初は聖望キリスト教会に行っても主の祈りの時は黙っていました(笑)。

 マタイ5〜7章を通読する中で「主の祈り」と出会えたならば、誤解を招く可能性は少ないと思いますが、もし初めて教会に来て、いきなり「主の祈り」と出会ってしまったら、私のように誤解する者も・・・。
長くなってしまいましたが、来週楽しみにしております。
よろしくお願いします。感謝
IJ」.


 そこで、私の方からも以下のメールを。
「頌主
メール受け取りました。感謝します。
1回お休みして、何かしばらくの感じ、午後を楽しみにしています。

 簡単?にまとめて頂いたものを大切にともに考えましょう。
 同時にハイデルベルグ信仰問答の主の祈りについての箇所を読んだ感想を聞かせてくだされば嬉しいです。

 それから著作集の刊行で、具体的に必要としている80万のために、二人で心を合わせて祈る時をもてれば、幸いです。

 Jさんの方でも、具体的な必要額があり、よろしければ、一緒に祈りましょう。

 それでは後ほど。

 忍耐と希望(ローマ8章25節)
 宮村武夫・君代」

 実業の世界で上昇も、詐欺まがいの相手のために下降も経験しているJさんと一緒に祈れるのは、確かに小さくない恵みです。

 この午後、そんな訳で主の祈り、アーメン