『A.J.ゴードンと内村鑑三』

『A.J.ゴードンと内村鑑三

★過去の「心の傷」や「トラウマ」の分析や操作の延長上ではなく、ヨブの苦悩とそれに対する主のメッセージに、「忘れる」(ピリピ3章13節、参照イザヤ1章18節)実践的態度転換の成立の根拠を見出す、中嶋聡愛兄の主張と実践に深く共鳴するのです。

 まさに、この点において、聖霊ご自身は、記憶と忘却の両面において、恵みの御業を私たちの心、生活・生涯においてなし続けてくださっている事実をしっかり確認したいのです。

 突然ですが、A.J.ゴードンと内村鑑三の摂理的関係が、思考の励ましを与えてくれます。以下、拙論「聖霊論の展開」著作1『愛の業としての説教』112−114頁から。

「・・・内村鑑三聖霊論については,以下のように内村の生涯全体と思索の営みの全過程を視野に入れた,高橋三郎先生の実に注目に値する論稿がある.

 『…聖霊の問題がある時は火山のように噴出し,ある時は地下水のごとく流れていたのであって,内村鑑三の生涯は聖霊を抜きにしては考えられぬということを,事実に則して明示しておきたいと思っただけでなく,われわれ自身にとっても,実践的にきわめて大切な問題だと思うからです.われわれもまた聖霊にあずかりたい.御霊よくだりたまえと祈らざるをえない.』(「霊の人」『十字架の言』236号 発行者高橋郎,1984年,7頁)

 ここでは,ただ一点に焦点を絞りたい.それはA.J.ゴードン(1836年4月19日ー1895年2月2日,ゴードン神学院,ゴードン大学の創立者の一人としてその名を後世に残す.聖歌601番の作詩者)の著作との深い関係である.内村の歩みを背後にあって支えた一人は,アメリカの友人ベルである.ベルは内村にとって役立ち,重要と思う著書を内村に送り続け,内村もこの背後の労を喜び,送られてきたものを愛読していた(高橋三郎,「霊の人」3頁).そうした背景の中で,興味を引きつけることを高橋三郎先生は,内村とA.J.ゴードンの著書との結び付きについて,以下のように述べている.

 『一九二一年(ゴードンの没後25年後)にも,彼(内村)はベルに宛てた手紙の中で,彼が送ったゴードンの『聖霊の働き』を,すばらしい本だと激称しており,

 『神は,私が上よりの声を最も必要とする今この時,この本をアナタの手をもって,私に送りたもうたのであると思います』」と述べています.以前にも同じくゴードンの手になる『見よ,彼はきたりたもう』という書物が,あの再臨運動の導火線となったのでしたが,その同じ著者による『聖霊の働き』と読んで,内村はこう言うのです.

 『私は聖霊の問題こそは,自分の一生の仕事において,最後にペンと口とをもって,解決にあたるべきものであろうと考えてきました』(一九二一年六月二九日)」(高橋三郎,前述論稿3頁)

 若き日,内村はアマストに行く前に二週間を過ごした,ゴードン・コンウェル神学校から遠くない,グロースターから新島襄に書き送った手紙を高橋三郎先生は以下のように訳されています.

 『小生は先生同様,孤独で,弱く,物思いにふけっています.しかし境遇を変えたことは,非常に休息となり,いらだち勝な魂は,聖なる主と共に,高い空にかける機会をたっぷりと得ています.過ぐる八日間,聖霊の降臨を求めて,熱心に祈り続けました.…(1885年《A.J.ゴードン49歳の時》8月10日)』(高橋三郎,前述論考4頁).

 この若き日の祈りは終生続き,1929年召天直前に書き上げられた.「聖霊を授かるの途」には,聖霊ご自身の日常生活における豊かな導きに対する幅広い受け止め方を見る.

 また,『内村の興味の対象は天文学,動物学,魚類学,人類学,考古学,極地の探検から哲学に至るまで,あらゆる領域に及んだ』(高橋三郎,前述論考5頁)のも,内村がカルヴァンなどと同様に,聖霊ご自身の働きを狭く救済論の業に限定したのでなく,広く豊かな万物に対する働きを認めていたからと判断する.このような内村の聖霊ご自身に対する理解に,A.J.ゴードンの著作が強い影響を与えているのは,やはり興味深い事実である.」