『礼拝の生活』再考、その46

1971年5月30日
『礼拝の生活』45号
(巻頭言)「『礼拝の生活』一年の歩み」
 
昨年1970年6月、『礼拝の生活』第一号が出されてから早くも一年が過ぎました。
何はともあれ一年の歩みが守られてきたのは、感謝なことです。今、一年の歩みを顧み、新しい出発の備えをする良い機会です。
 
まず『礼拝の生活』の役割を、再確認する必要があります。私たちは、礼拝と生活ではなく、礼拝の生活を目標として歩んできました。そして現実に生き戦う礼拝の生活を、側面から助けるのが、『礼拝の生活』の役割と考えてきたのです。ですから中心は、どこまでも、私たち各自がそれぞれの立場・持場で、恵みに答えてなし続ける礼拝の生活なのです。この印刷物としての『礼拝の生活』は、礼拝の生活が生きた現実となるための手段に過ぎません。『礼拝の生活』の役割は、それ以上でも、それ以下でもありません。
 
このような役割を『礼拝の生活』が果たしてきたかどうか顧みるために、三つの点を取り上げます。
①まずこの一年、『礼拝の生活』において、そして各集会において、神の恵みの現実が十分に語られてきたか。

②次に『礼拝の生活』において、教会全体また各個人として、恵みに答えて生きる姿勢が十分見えたか。

③最後に、『礼拝の生活』が、新しく礼拝の生活を自分の生き方としようとする人々の助けとなったか。
 これらは、第二年目の課題でもあります。

事実と記述
1971年5月30日の時点で、
「現実に生き戦う礼拝の生活を、側面から助けるのが、『礼拝の生活』の役割と考えてきたのです。ですから中心は、どこまでも、私たち各自が、それぞれの立場、持場で、恵みに答えてなし続ける礼拝の生活なのです。この印刷物としての『礼拝の生活』は、生きた礼拝の生活が現実となるための、手段に過ぎません。『礼拝の生活』の役割は、それ以上でも、それ以下でもありません。」と言い切っている恵みを、今2012年7月7日の時点で改めて心より、感謝しています。

 1971年5月30日以前と以後のそれぞれの期間に私に深い影響を与えてくれた二冊の本を覚えます。

 最初のものは、1963年9月から1967年6月までのアメリカ留学の期間、身近に置き愛読していた数少ない日本語のものに属する一冊。
関根正雄先生の著作で、聖書におけるfacta(事実)とdicta(記述)の関係について、鋭く深く明瞭に展開されていました。
聖書が歴史的事実に根差す。同時にその記述の重要性の両面が私の心に刻まれました。
この基本は、聖書に導かれ生かされる私の生活・生涯また働きに決定的な影響を与えました。事実と記述の両面。礼拝の生活と『礼拝の生活』の関係の把握の備えとなっていたと判断します。

 他の一冊は、朝日新聞の夕刊『文芸時評』で、井上ひさしが紹介していた中公新書
木下是雄著、『理科系の作文技術』中公新書624 初版1981年9月

 この著書の7章「事実と意見」
 私がどう思う・こう思うの話しではなく、事実を記述する営みに徹する理科系作文技術。
この基本は、聖書解釈や説教の基本でもあります。
私個人にとってばかりでなく、聖書解釈学の授業で、本書を常に紹介して来ました。
 ですから自らの宣教・説教において、「私は・・・と思う」との表現を徹底的に排除する営みを続ける教え子と今も心を定めて同行しています。
 それは、「私は・・・と思う」と無意識の内に表現してしまう聖書解釈の仕方、その根底にある生き方とのそれなりに激しい戦いなのです