『礼拝の生活』再考、その40

971年4月11日
『礼拝の生活』39号
「キリストとキリストの教会
   ――キリストの死と復活の故に――」
 

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたのです」(ローマ4:25)
 今年のイースターは、4月11日。キリストの死と復活が、キリストの教会にいかなる根元的な係りを持っているか、この日、特別な意味で味わいたいのです。
 
 イエス・キリストが、私たちのために、私たちの罪のために死なれたと聖書は宣言しています。では私たちの罪とは、何を意味するのでしょうか。
それは、「自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えて」(ローマ1:22、23)しまう事実です。つまり、人間を、また他のものを、神の位置にまで引き上げてしまう有り様です。人間を絶対化、神秘化してしていのです。
 限度内に留まっている限り善である思想、制度、手段を絶対化し逸脱てしまう恐ろしさ。そうなのです。私たちの罪とは、あらゆる種類の偶像礼拝です。
 現代においては、現代の偶像礼拝が、具体的な力をふるい、生きた人々を罪の奴隷として飲み込み支配しています。
 
 ですから「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され」(ローマ4:25)と宣言される時、問題として直視されているのは、本来あるべき姿がひっくり返されている、私たち人間の惨状です。人間が人間を、また、あらゆる滅ぶべきものを絶対化し、神格化する、ひっくり返った状態から、あるべき姿に立ち返るのは、特別な意味で偉大なひっくり返しによってのみ可能なのです。偉大なひっくり返し、つまり主なる神のひとり子が人となり、私たちの間に住まわれるインマヌエル(神われらと共に)の出来事によってのみ。
 
では、キリストの死は一体何を意味するのでしょうか。
それはこの一事です。神の御姿であられる方がその特別な立場を固守なさらないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に、十字架の死にまでも従われた」(ピリピ2:7、8)。
 神から人への、底に徹する語りかけ、呼びかけを意味します。私たちの立場にまで下ってきてくださり、私たちに代って、私たちが当然受ける恥ずかしめを受けてくださった事実の宣言です。最も高きところから、最も低きところ・私のところにまで貫き至る恵みです。これがキリストの死の意味です。人が神になろうとする偶像礼拝のきずなから、神が人になる驚くべき出来事を通して解き放ちです
 
 キリストの教会は、キリストの死によって罪から解放されるばかりではありません。
さらにキリストの教会は、キリストの復活にあずかる者として生かされるのです。キリストの復活とは、十字架の死に至るまでの恥ずかしめをうけたキリストが、死と罪に勝利された事実を意味します。
 しかも復活の勝利は、キリストの昇天、父なる神の右に座して、大祭司として執り成し給い、さらに再び地に来り給うとの約束にまで展開するのです。
 キリストの教会は、この大きな広がりに満ちる復活のキリストの中に生かされているのです。キリストの教会は、キリストの死にあずかるバプテスマによって、罪に対して死んだ者であり、同時に復活のキリストによって、神に生きるものとされているのです。
 
 福岡姉妹が、イースターの午後に洗礼を受けられる恵みを通して、キリストの死と復活がキリストの教会に対して持つ最も深い関係を、より現実的に教えられます。
福岡姉妹が、主イエス・キリストを救い主として信じ洗礼を受けることは、他ならず、キリストの死が福岡姉妹のためのものであり、キリストの死にあずかることによって罪に死に、キリストの復活にあずかる者として、新しく生かされることを意味します。
新しく生かされるとは、自分のために生きるのではなく、自分のために死んでくださったキリストのために生きることです。
このようにキリストの復活は、単に過去の出来事ではなく、キリスト者・キリストの教会の現実と最も深く係ってくるのです。キリスト者個人の、またキリストの教会全体の現在の本当の姿は、復活のキリストにあずかるキリストの体としてのみ、正しく理解されるのです。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました」(コリント第二5:17)との宣言が、福岡姉妹の上に、またキリストを信ずる一人びとりの上に成就されるのです。
 
 4月10日午後におこなわれた、大倉直子ちゃんの召天記念礼拝を通して、キリストの死と復活を通して現実のものとされた、キリストとキリストの教会の生きた関係を実に深く教えられました。
是非、コリント第一の手紙十五章を、声を出してもう一度読み、心の中に深く味わうように心から勧めます。
 キリストの復活は、キリストにあって眠った者の初穂としての復活です。
そうなのです。キリストの復活は、単に過去の事柄としてのみ理解されてはなりません。主イエスの復活は、キリストの体なる教会の未来を指し示すのです。
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れてこられるはずです。」(テサロニケ第一4:14)。
この望みの故に、私たちは望みのない人々のように、悲しみに沈むことなく、互いに慰め合うことが出来るのです。「死は勝利にのまれた」(コリント第一15:54)、
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」(コリント第一15:55)などの勝利の宣言は、キリストの復活において現実となったように、キリストの教会においても、キリストの故に現実とされているのです。
神がすべてにおいてすべてであることがあらわされる時、キリストの死と復活の故に、私たちは、主に召された幼な子直子ちゃんについて深い慰めを与えられます。
 キリストの死と復活によって、キリストの教会は復活のキリストの体として生き続けるのです。

★日本クリスチャン・カッレジ1年生の時、心理学の授業のレポートで、「ヨハネによる福音書14章26節の理解」(宮村武夫著作1『愛の業としての説教』214頁以下)を書いて以来、ゴードン神学院、ハーバート、上智いずれにおいても、ヨハネ14−16章を中心に、聖霊ご自身についての聖書からの聴従は、私の続けての課題でした。現在はさらに徹底的な聖霊信仰と思い定めています。

 同様な経過を、「キリストとキリストの教会」の課題についても辿りました。
 1963年秋、ゴードン神学院で最初の授業の一つは、ラムンゼイ・マイケル教授の新約学で、そこで本格的な学びの手ほどきを受けました。
 マイケル先生は、ゴードンでの3年間心のこもった指導をなし続けて下さり、ゴードン卒業後進学するよう熱心に勧めてくださいました。
そのマイケル先生の指導のもとで書いたレポートの一つが、「Ⅰペテロ2章21節に見るキリストとキリスト者の結び」です。この課題を掘り下げ、ハーバートの神学修士課程のため要求される二本の小論文の一つを書きました。こうした営みを帰国後にまとめたのが、宮村武夫著作5『神から人へ・人から神へ』89頁以下の「Ⅰペテロ2章21節に見るキリストとキリスト者の結び」です。

 日本クリスチャン・カッレジから始まって、ゴードン神学院、ハバート、上智と優れた教授方のもとで、キリストと教会の関係、キリスト論と教会論の結びを思考する訓練を受けた恵みを改めて感謝します。

 さらに今にして嬉しいのは、生きた教会の現場でキリストとキリスト者・教会の生きた絆を確認した恵みの事実です。
福岡姉のご主人は長距離トレラーの運転手で、求道を始めた頃、早朝出発前に教会で二人で祈るときを持ちました。豪胆に見える男一匹がどのように恐怖心と戦いながら腕一本で家族を支えているのか。その現場での祈りです。
 福岡兄がキリスト信仰に導かれた恵み。後年癌で召されていく中で、私たち二人の主にある交わりを最後まで喜んでいてくれていたと、福岡姉からの便りを沖縄で受け取ったのです。

 誕生直後に、主の身元に召された直子ちゃん。
大倉家には、その後三人の子供が与えられ、今それぞれに主の証人として活躍しています。
先ほど、大倉夫人と電話で、この『礼拝の生活』再考について話したところです。