『礼拝の生活』再考、その33

1971年2月7日
『礼拝の生活』32号
 
(巻頭言)「目をさましていなさい」
 
 来る2月10日、11日の日本新約教団の総会における重要な議題の一つは、靖国神社法案反対声明に関するものです。
靖国神社法案に直面する時、旧約聖書におけるイスラエルの歩みを、もう一度新しく味わう必要を痛感します。
またローマ帝国下の初代教会の歩み、さらに二千年の世界教会の歩み、国家神道支配下における日本の教会の歩みについて、深く考えねばなりません。

そこに明らかにされるのは、唯一の、生ける、真の神のみを礼拝し仕える神の民の責任です。神の民としての責任と戦いです。この視点から、法案に対する私たちの基本的態度が決定されてきます。
反体声明は、
「わたしたちは、今国会に提出される本法案が、かつて国民の基本的人権を侵害し、戦争遂行の布石となった国家神道の復活に通ずるものであり、現行憲法の第十九、二十、八十九条に違反し、新教の自由と政教分離の原則を破り、軍国主義の肯定を意味するものとして、強くこれに反対します」というものです。
ここで主張していることは、神の民を神の民たらしめる十戒の根本、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト20:3)に、自分たちが置かれた歴史的な状況の中で、聞き従うことを意味します。
 JPC研究調査専門委員会編、「キリスト者靖国問題」を、是非お読みくださるように、繰り返し勧めします。
 私たちは、今、確かに目をさましていなければなりません。

★あれから40年の歩みを重ねる中で、教会と国家の関係を私なりに考え生きる中で、
一つの小さな覚悟が、次第に堅く心の奥に刻まれて来ました。
国家に対するためには、教会が教会自身に対する態度を問われる。
その場合最も身近な地域教会をめぐる事柄、たとえば教会や教団、関係神学校の
歴史の受け止め方が基盤と確信するようになりました。
 あることをないことにしない。
 ないことをあることにしない。

 アンデルセンの「裸の王様」の少年のように、
「王様は裸だ」と見抜く目。
「王様は裸だ」と叫ぶ口と勇気。
常にあの少年になり続けるために、
年を重ねた40年。
今少しは若さが現実であれば、感謝。
教会と国家の関係を見・生きるために。