『礼拝の生活』再考、その32

1971年1月31日
『礼拝の生活』31号

日本新約教団総会を前に」
 2月10日、11日に、奥多摩キャンプ場において、日本新約教団の第11回総会が開かれようとしています。青梅キリスト教会からも、教職議員と信徒議員が出席します。
 今年の総会においては、「宣教の幻」との主題に基で、各教会の現状と幻について語り合われます。また各教会の歩みを通して、教団全体の、確実で積極的な宣教方針が打ち出されることが期待されています。
 
各種の報告、新年度の計画、予算などの外に、今年特に大切な議題として、信仰告白第十条の削除、靖国神社国家護持反対声明提出、教団献金についてなどがあります。これら一つびとつの議題は、唯一の神のみに従い、日本の現実の中で生きようとする日本新約教団全体の生き方と深く結ばれています。
 
私たちの群は、聖書が教え各時代の教会が戦いつつ告白してきた信仰告白に立ち、教会形成を目ざしています。ですから他のあらゆる原理や現実に支配されることを拒否する、真の自由に立つ存在です。また自らの存在を、信仰告白の上にのみ置くきびしい存在であるべきです。しかも日本新約教団は、時代と場所の隔たりを越える、聖なる公同の教会に属する一肢体として存在するのであって、孤立した存在ではありません。
 総会の議題一つびとつを考えるにあたって、神が、現代日本において、何を求めておられるかを求め抜きたいものです。

日本新約教団を青梅キリスト教会の上や横に考えるのでなく、両者を一体として受け止め、そのように公言していたことを懐かしく、またうれしく感謝します。
青梅キリスト教会そのものにおいて、会員各自と教会が個と全体の関係で不可分であるように、青梅キリスト教会と日本新約教団の関係も、個と全体の関係で不可分であると理解し確信していました。
そうです。「全体」を把握することにより、個は個として独自性を自覚し発揮するのです。
課題は、終局的・根源的「全体」の洞察です。私の場合はゲルハルダス・ヴォスにより導かれてきました。
その道の大筋を確認し、その内容の提示の必要を自覚しています。