『礼拝の生活』再考、その30

1971年1月17日発行
『礼拝の生活』29号

(巻頭言)「きれいごとではすみません」 
 敬愛する恩師が最近話されていた言葉が、強く心に迫ってきます。
教理と論理の関係について話されたのです。キリスト者として生きることは、何かきれいごとではすまされないという意味のことが話されました。
たとえば、アブラハムについて、新約聖書では、信仰の模範と言っています。
 ところが旧約聖書を直接読んでいくと、アブラハムの生涯が、外面的にきれいごととして、描かれているのではない。ヤコブの場合など、すさまじいばかりの生涯です。
 ですから、信仰の模範と言っても、単純にきれいごととして取り扱えないという意味のことを話されました。その通りだと同感します。
 
 私たちは、聖書と現実のギャップ、へだたりに悩むと言います。確かにそう言わざるを得ない面があります。
しかし同時に、私たちの根本的問題の一つは、聖書をありのままに読まないで、きれいごととして取り扱い、信仰生活も観念的なきれいごとにしていすましている点ではないか。
 聖書も、私たちの生活も、もっともっと全体的にありのままに見られなければならない。聖書を通して、私たちの中に人間のみじめさが、もっと具体的に、はっきりと見つめられなければならない。
 そうでなければ、罪のゆるしに基づく聖なる公同の教会、聖徒の交わりも具体性がなくなります。礼拝の生活なのですから、きれいごとではすみません。何よりもキリストの十字架は、きれいごとではありません。

★「きれいごと」の意味として、手元の辞典では、三つあげています。
①「手際よく美しく仕上げること」
②「体裁だけで実のこもらぬこと」
③「よごれないで済ませられる仕事」

 この文章において繰り返し用いている「きれいごとではなく」と否定形で言い表そうとしている意味は、文中2回用いている「ありのままに」に近いと現時点で判断します。その後ほとんど用いなくなった表現です。
 しかしここで直面している課題そのものは、今日まで私にとって生きている重要な課題です。
 今なら、表面的でなく、底まで徹しての意味で徹底的を用います。たとえば、
 徹底的な聖霊信仰
 徹底的な聖書信仰
 さらに、『聖霊論の展開』を通して教えられ、日本福音キリスト教会連合に属する時代から意識的に用い続けているのは、
「あることをないかのようにしない」
「ないことをあることのようにしない」
と二組の表現です。
 聖書の読み方との関連で、現在用いているのは、
「味読・身読」です。
その心はと言えば、
 聖書を単に知識、理性のレベルだけで読むのではない。
全存在を持って、食べ受け止め味わう。
 からだ・人間・私の全存在をもって聖書全体に入り、味わい食べた聖書全体が私野からだとなっていく、聖霊ご自身の導きによる生活・生涯の営みに希望を抱き耐えて行く道。これが、1971年の時点から一貫し、同時にそれなりのささやかな進展をともなった、私の導かれて来た聖書解釈です。