『礼拝の生活』再考、その29

1971年1月10日
『礼拝の生活』28号

(巻頭言)「時は信仰なり」 
年の始め、時について考えさせられています。多くの方が、日々の忙しさを話されています。同感です。
 時間は、とても平等とよく言われます。誰にも、その人の背景、能力、その他一切にかかわりなく、一日24時間が与えられているのですから。
しかしこれは表面的な平等であることは明らかです。実際は各自の置かれた立場によって、種々の制約を受けます。また同じ一人の生涯においても、生涯のそれぞれの段階において、一日は長くも、短くも感じられるものです。
ですから誰にも平等に一日24時間与えられていると言っても、それを生きる人の側からの働き掛けがとても個人的で、私が時間を創造していくとでも言わざるを得ない面があります。これは、私たちの体験から確かです。
 
もちろん私たちは、外的な制約を仕方がないとあきらめたりしません。たとえば、過度な労働時間を要求する社会制度に対して、その制度や制度を生み出す矛盾を改革していく立場、これは私たちが信仰的良心に立つ時当然取らざるを得ない立場です。 
 しかし同時に、種々の外的な制約の中にあっても、いや本当は、そうした制約の中に生かされているからこそ、時は、私たちの働き掛けを求めています。時について考えると、私がどう生きるか、最も深い信仰の課題であると気づかされます。
「時は信仰なり」です。文字通り、礼拝の生活なのです。

★「時は信仰なり」。聖書の宣言を、親しみやすいことわざの文体で表現する、聖書ことわざ集のようなものを考えます。
 その前に、日本語聖書(私の場合一番親しんでいるのは新改訳第2版です)の切れ味を剪定作業を通して確認する必要を覚えています。
たとえば、
「喜んで仕える霊」(詩篇51:12)
預言者の涙、神の涙」(エレミヤ13:17)
「今こそ主が事をなさる時」(詩篇119:126)
「はや死にたり」(使徒の働き20:9)
「神の恵みの福音」(使徒の働き20:24)
「はばかることなく」(使徒の働き20:27)
「いつまでも、終わりまでも」(詩篇119:112)